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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年12月29日(日) 08時30分

    尼子山城

    2019年12月24日(火) 放送 / 2019年12月29日(日) 再放送

    赤穂市坂越町下高野にある尼子山(あまこやま)城です。山城の名前は、多くは地名に由来するのですが、城主の名から来ている場合も少なくありません。この城の場合、出雲出身の豪族・尼子氏から命名されたのは、麓に尼子神社がある事実を見ても明らかです。尼子氏と言えば、宇多天皇にルーツを持つ源氏・佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家です。初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、今の滋賀県甲良(こうら)尼子(あまご)に移り、尼子氏を名乗ったのに始まります。

    尼子氏は京極氏の出雲守護代として、現在の島根県安来(やすぎ)市広瀬町にある月山富田(がっさんとだ)城を根城に、やがて隠岐の守護代をも兼ねまして、出雲に加え、鳥取県西部の伯耆(ほうき)国をも掌握し、力を蓄えていきました。経久(つねひさ)の時、数々の戦乱を乗り越え、戦国大名としての地位を確立し、1537年、家督を孫の晴久に譲りました。

    尼子晴久は1555年ごろ、赤松氏を大きく上回る絶頂期を迎えます。何と中国地方の8カ国、約120万石の守護に任じられたのでした。山陰では島根県の出雲と隠岐、鳥取県の伯耆と因幡、それに山陽では、岡山県の美作・備前・備中と広島県東部の備後にまで及びました。晴久はこれでも満足せず、家督を譲られて以降、播磨への勢力拡大を図ります。ただし、すんなりとは行きません。広島の安芸国へ侵攻して毛利氏を攻めた際、逆に本拠地の出雲を襲われたりして、興亡を繰り返しました。

    一時は中国地方に覇を唱えた尼子氏の最盛期、晴久がついに西播磨に攻めてきました。たつの市新宮町馬立の城山(きのやま)城を足掛かりとしましたが、城は1441年の嘉吉の乱で落城後は、100年近くも荒れ放題になっていました。そこに目を付けたのが尼子晴久でした。1538年、この城山城を修復して2年間、播磨支配の根城として、赤松系の山城を次々と攻略し、尼子一族を入れていたと思われます。赤穂市坂越町の尼子山城もそんな一つでしょう。

    尼子氏の入城以前の様子は分かりません。尼子晴久が尼子山城に入った後、息子の義久が城主を務めたとされますが、晴久が1562年までに没した後、尼子氏は急速に衰え、3年後の1565年には、毛利元就に尼子氏の本拠・出雲の月山富田城を包囲され、1581年ついに降伏に追い込まれました。ここに尼子氏の本家は滅びました。

    尼子山城が落城したとされる1563年は、尼子義久の代となった翌年(一説では3年後)ですが、落城は尼子氏凋落の前触れのような格好となりました。