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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年4月15日(日) 08時30分

    山城とは(中)

    2018年4月10日(火) 放送 / 2018年4月15日(日) 再放送

    「西播磨の山城」についての番組ですが、前回の第1回は「城とは何か」に始まりまして、「山城とは」について話しました。山城のルーツは古く、弥生時代中期以降の「高地性集落」が起源になるけれども、まだこの段階では山城とは呼ばないこと。そして、本格的な山城の最初は実は、朝鮮半島から伝来した築城法によって建てられた「朝鮮式山城」でありまして、これが日本の「古代山城」の始まりである―というところまで説明しました。

    それでは、なぜ日本に「朝鮮式山城」があるのでしょうか。今回は、その謎解きからスタートします。

    7世紀の半ばを過ぎた頃、日本では天智天皇在位2年目の663年、朝鮮半島南部で発生した「白村江の戦い」が築城のきっかけになっています。戦いの3年前に滅亡した百済国の残党が「何とか国を再興したい」と、以前から友好関係にあった日本に援軍を要請してきました。これに応じて2万7000人もの兵を半島に送り「倭国・百済連合軍」を結成して、新羅と中国の唐の連合軍と戦いました。しかし残念ながら大敗してしまいます。これが「白村江の戦い」です。この結果、百済の貴族らが多数来日しましたが、もしや新羅・唐の連合軍が、海峡を越えて襲来するのではないかと心配しました。その対策として、百済の亡命技術者の指導によって、九州北部から瀬戸内にかけて築いたのが朝鮮式山城なのです。

    それが「古代山城」の典型ですが、次の段階「中世山城」について話を進めていきましょう。中世山城は、平安時代末期から戦国時代末まで全国に築かれました。前回、山城の特徴として述べましたように、この「中世」という時代の城は、山の上に城郭を置きまして、麓に住居としての居館を築くという「最も標準的な山城」に属します。ただし、城の規模の大きさによって様子は異なります。「規模が小さい城」は、山の上に簡単な、掘っ立て柱による「櫓」のような建物を造りまして、ここに食料や武器を保管します。あとは、自然の地形を利用して「柵」や「堀」や「土塀」を設けて完了です。

    少し大きい「中規模の城」になりますと、あちこちの山の峰に本丸や二ノ丸に当たる「曲輪」を造りまして、住居も備え、長期の籠城にも耐えられるようにしました。さらに「大規模な山城」になると、中心の城に加え、周辺の山々にも出城を設けて城同士をネットワークで結びまして、山系全体で要塞に仕立てました。この時代、つまり「鎌倉後期から南北朝期まで」の代表として、どんな城があるのでしょうか。後醍醐天皇を奉じる楠木正成が根城とした千早城や赤坂城、それに金胎寺(こんたいじ)城などが挙げられます。しかし、いくら規模が大きくなっても「南北朝期までの山城」には、村落を支配する機能はありません。専ら「防御」に最大の効果が発揮できるよう、標高400メートルもの高い山に城が築かれていました。

    同じ「中世山城」でも、次の「戦国時代」に進むと、名前の通り戦いが常態化するために、山上の城の機能が変わってきます。歴史ドラマでもよく取り上げられる「戦国時代」の山城とは、いったいどのような姿だったのでしょうか。次回のお楽しみです。