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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年5月6日(日) 08時30分

    城山城(上)

    2018年5月1日(火) 放送 / 2018年5月6日(日) 再放送

    前回はこんな話でした。西播磨の山城のほとんどが、時代的には「中世山城」で、「赤松氏」にゆかりを持つ所が圧倒していて、「南北朝期から室町期の誕生」と推定される山城が多数を占めているけれども、中には、築城がさらに鎌倉期にまでさかのぼる可能性がある所や、築城年代に確証が持てない山城もあるということでした。

    今回は、さらに珍しい山城、つまり例外的に、区分が2つの時代にまたがる「複合遺跡」を取り上げます。西播磨では、恐らくここだけと思われる、たつの市新宮町馬立(うまたて)の「城山(きのやま)城」です。城山(しろやま)と書いて「きのやま」と読みます。この城は、古代の「朝鮮式山城」がまず築かれ、かなりの時代を置いて「中世山城」が登場したため、「古代と中世の複合遺跡」を構成しています。

    その城山城について詳しく掘り下げましょう。特徴が2点あります。西播磨の山城では唯一「古代」に造られた痕跡がある点が1つで、その意味では兵庫県内では最古の山城です。もう1つは、「朝鮮式山城」である点です。この地域の例に漏れず「赤松系」として中世に築造されたのは事実なのですが、それより700年近く前にも、全く形式の異なる「古代の山城」が造られていたのですね。古い方の「朝鮮式山城」の方から見ていきましょう。

    時は7世紀後半、いったん西日本から離れ、視野を大きく東アジアに広げて、古代の朝鮮半島を眺めます。北部に高句麗、南東に新羅、南西に百済という3つの国があり、互いにけん制しつつ勢力の拡大を図ろうとしていました。その際、中国や日本と同盟を結び、連合軍として戦う場合もありました。例えば4世紀後半の372年には、時の百済の王が中国の東晋に朝貢して「鎮東将軍領楽浪太守」に叙されて“お墨付き”を得る一方、日本の倭王に七支刀を贈って、高句麗に対抗したりしました。そして7世紀中ごろ、百済は倭と結び、新羅と高句麗に対抗しましたが、660年、中国の唐と組んだ新羅軍に都を奪われてしまいました。

    しかし、百済の残党が復興軍を組織して、日本に亡命していた王子を呼び戻して百済王に擁立し、日本からの援軍2万7000人を迎え入れました。一方、百済の都を占領していた唐の将軍も日本の動きに慌てて、本国の高宗に緊急援軍を求めました。こうして、白村江の下流で百済・日本の連合軍は唐・新羅連合軍と戦いましたが、大敗しました。

    この戦いは、唐と日本による「代理戦争」の一面もありました。つまり、東北アジアで唐を中心とする国際秩序を構築しようとする「唐」と、百済との4世紀以来の友好関係を基に国際的地位を主張する「日本」との戦いでした。その後、日本は亡命百済人を大量に引き受けるとともに、主に唐と新羅の連合軍を敵と想定した「対外防備用の山城」を西日本一帯に造りました。これが「朝鮮式山城」でしたね。築城を指導・監督したのは、百済から亡命してきた技術者たちでした。