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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年5月20日(日) 08時30分

    城山城(下)

    2018年5月15日(火) 放送 / 2018年5月20日(日) 再放送

    これまで6回にわたって「山城」についてお話しましたが、まだまだ分からない点がいっぱいありますし、研究者によって意見が大きく分かれる事柄も、無視できないほど存在します。この番組では、そうした細かい論争や見解の相違を超えまして、あくまで私の独断と偏見による「山城入門」と位置付けております。松尾芭蕉ではありませんが、西播磨に点在する「つわものどもが夢の跡」に深く分け入りましょう。

    さて前回は、たつの市新宮町馬立(うまたて)にある「城山(きのやま)城」が、「古代と中世の複合遺跡」である点と、その立地についてお話しましたが、今回は「中世山城」として築かれた部分を重点的に見ていきましょう。

    中世に築かれた部分は、1352年ごろに、赤松則村(円心)の三男・赤松則祐(そくゆう)が築城開始以来、20年以上をかけて整備したと言われています。その後、則祐の息子・義則から、さらにその息子・満祐(みつすけ)へと、3代にわたって90年近くも赤松一族に受け継がれていました。ところが、赤松氏が時の将軍を殺害するという、とんでもない事件が発生します。「嘉吉(かきつ)の乱」です。

    この乱は、室町幕府の第6代将軍・足利義教(よしのり)が自らへの権力集中を図ろうと、守護大名や寺社に圧力をかけていた事態に危機感を募らせた、赤松義則の長男・満祐が、将軍義教を暗殺した事件です。何しろ、将軍が赤松氏の治めている播磨など3カ国の守護職をはく奪しようと企んでいる―との風評を赤松満祐が耳にして激怒し、合戦平定の祝賀と称して将軍を京都の赤松邸に招き入れ、満祐の長男・教康(のりやす)に殺させたのです。

    将軍殺害後、赤松満祐らは直ちに自らの屋敷に火を放ち、京都から播磨に下りましたが、当然ながら細川氏や山名氏の軍勢から成る、幕府の追捕使が追ってきます。満祐ら赤松一党は、姫路の書写山南西の山麓にある坂本城にいったん身を寄せた後、最後に籠ったのが、城山城でした。時に嘉吉元年(1441年)9月10日、長男・教康は辛うじて城から逃れましたが、満祐以下一族70人近くが自刃して果てました。この「嘉吉の乱」で赤松氏の惣領家はいったん滅亡したのはもちろん、統治能力に不信感を持たれた幕府と将軍の権威も失墜しました。

    その後、城山城は荒廃しましたが、「嘉吉の乱」から100年近くたった、戦国時代真っただ中の1538年、島根県東部から鳥取県西部にかけての出雲国と伯耆国を中心に、勢力の拡大を続ける尼子晴久が、さらに西の播磨へと侵攻し、この城山城を再興して撤退するまでのまる2年間、本拠としました。しかし、尼子晴久が去ってからは、城山城が再び使われることはなく、廃城となってしまいました。