赤松氏一族(上)
2018年5月22日(火) 放送 / 2018年5月27日(日) 再放送
西播磨の山城のほとんどが「中世山城」に属していて、かつ「赤松氏一族」と密接な関係があると申してきました。前回は、たつの市新宮町にある「城山城」の話の中で、赤松氏最大の危機だった「嘉吉の乱」についても触れましたが、やはりこの地域、西播磨の山城を理解するには、「赤松氏」の歴史をきちんと知る必要があります。そこで、今回は「赤松氏物語」として「嘉吉の乱」が起きる前まで、一族の栄枯盛衰をたどります。
赤松氏のそもそものルーツは「村上源氏」とされています。つまり、平安時代中期、10世紀中ごろの村上天皇(在位946~967年)の子孫で、皇子・具平親王の子・源師房を祖とする賜姓皇族の一つに挙げられます。赤松氏も鎌倉時代以降、多数輩出した村上天皇系の公家や武家の一党です。一説によると、初代・源師房から数えて10代目の則景が、播磨国佐用荘の地頭職に任じられまして、荘内の赤松村(現佐用町と上郡町の一部)に土着し、息子・家範の時代に、地名を取って赤松氏を名乗ったとされます。
その家範の曽孫・則村(後の円心)が武人として活躍してから家運が上向いてきますが、代々かなりの紆余曲折があります。1333年、赤松円心が鎌倉幕府を倒すため足利尊氏とともに、京都にある幕府の拠点・六波羅探題を攻略して大いに手柄を挙げました。にもかかわらず、倒幕後の後醍醐天皇による「建武政権」で赤松氏は、なぜか冷遇されてしまいます。当初、円心が幕府方に属していたというのが理由ですが、円心としては面白くありません。
何とも不満に思っていたところ、「建武の新政」2年後、武士の不満の声に押された足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、赤松円心はこれに従い、尊氏が開いた室町幕府で「播磨国守護」に任じられる出世をしました。続く南北朝の内乱期にも終始、北朝の尊氏側に付き、長男の範資らとともに活躍した結果、円心が播磨国守護に、範資が摂津国守護となりまして、まさに上昇機運に乗っていきます。
円心には、息子が10人近くいました。そのうち、歴史に名が残るのは、先の長男・範資と、次男・貞範、三男・則祐(=のりすけとも)の3人です。このうち、活躍もしたが失敗もし、かと思えば、復興もして、何かと世を騒がせたのは、三男・則祐の家系です。まずは長男・範資の系統から順に見ていきましょう。
先ほど、赤松円心が播磨国守護となった際、長男・範資は摂津国守護となったと言いました。しかし、範資が亡くなった後、嫡男の光範が摂津国守護職を継いだところまではいいのですが、その職を細川氏に奪われてからは、範資の系統は勢いが無くなります。ただし、範資の息子・光範から数えて7代目の義村が、円心の三男・則祐の系統の養子に入った事実は、記憶にとどめておく必要があります。