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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年9月2日(日) 08時30分

    感状山城(下)

    2018年8月28日(火) 放送 / 2018年9月2日(日) 再放送

    相生市矢野町森の感状山城が、上郡町赤松の白旗城とともに後醍醐天皇の建武政権にくみする新田義貞の大軍に耐えた奮戦のおかげで、室町幕府の将軍となった足利尊氏から赤松円心の三男・則祐が、手柄の証しである「感状」をもらったとの故事が基となって城の名前が付けられました。1985年から3年間の発掘調査の結果、感状山城跡に火災の跡がないため、この場所では大きな戦闘が無く、関係する生活用具は、建物の材木などを含め、一括して他の場所へ移したのではないかと推測する専門家もいます。

    にもかかわらず、1336年、新田氏の播磨攻めの際に赤松則祐が自ら火を放つ「焦土作戦」に出て、円心が守る白旗城に合流したとの説。また、はるか240年以上後の1577年に秀吉が上月城攻めをした時に、あおりで落城したとの説もあります。今となっては事実確認が難しい落城にまつわり、複数の「落城秘話」が残っています。いずれも秀吉に攻められて落城したとする、悲しい物語を3つ紹介しましょう。

    まず一つ目です。落城寸前の城内に2人の姫がいました。1人は、人手に掛かって恥をさらすよりはと、金の鶏の置物を抱いて井戸に身を投げました。一説では、置物ではなく、飼っていた鶏と共に投身したとも言われ、毎年元旦に井戸から朝を告げる鶏の声がしたと伝えられます。もう1人の姫は、城下の藤堂という家に逃れます。以来この家の人たちは姫を守って過ごしましたが、藤堂家から生まれる女の子は美人ばかりでしたので、この姫のおかげと噂されました。

    また、城内にあった「秘密の泉」にまつわる話もあります。城は秀吉の攻撃にも耐え、この泉のおかげで水脈を絶たれてもびくともしませんでした。ところが、1人の老女が裏切って泉の在りかを敵方にしゃべってしまい、泉が占拠されたため落城してしまいました。この裏切りのせいで、老女の家では白髪の男の子ばかりが生まれたと言います。

    三つ目は「抜け道」の話です。麓の森村の北の大きな溝がずっと南側の溝と合流していました。ある武士がこの抜け道を通って逃れようとしたものの、果たせず亡くなりました。落城後、この大溝に亡霊が現れ、人々を驚かせたと言います。

    発掘などで落城の証拠が確かめられないにもかかわらず、こうした秘話が語り継がれているのもまた事実ですので、状況証拠からは、どうしても落城に傾いてしまいます。

    西播磨の山城が、行きにくい所が多い中、この感状山城は、ハイキングコースとして整備されているため登りやすくなっています。JR相生駅から神姫バス「榊行き」で約20分、瓜生停留所で下車し、北へ約20分で「羅漢の里」に着きます。ここから城への登山道がありまして、30分ほどで城跡に出ます。