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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年9月16日(日) 08時30分

    感状山城と置塩城(中)

    2018年9月11日(火) 放送 / 2018年9月16日(日) 再放送

    姫路市夢前町にある置塩城の2回目です。西播磨エリアから外れますが、相生市の感状山城跡と上郡町の白旗城跡を合わせた3カ所で1996年に「赤松氏城跡」として「国の史跡」に指定されましたので、触れないわけにはいきません。置塩城は海抜370メートルの置塩山にある赤松氏の山城ですが、赤松一族の長い歴史からすると、「嘉吉の乱」後の逼塞を経て、復活してから落日までの5代、約100年間だけです。

    では、徐々にしぼんでいく様子を見ていきましょう。築城したのは1469年、赤松政則でした。政則は、断絶していた赤松氏を復活させた立役者です。赤松円心の三男・則祐の孫・満祐が、室町幕府の将軍足利義教を殺害した後、たつの市新宮町の城山城で一族郎党が自決しました。断絶17年を経て立ち上がったのが、満祐の弟・義雅の孫で、円心からすると6代目の政則でした。

    政則の播磨入国に当たっては、幕府管領の細川勝元の力添えがあって、播磨と備前・美作の計3国の守護に返り咲けました。しかし、3国を完全に統一できないまま、政則は数え42歳で亡くなりました。

    政則には、村秀という実子がいましたが、側室の子であっため本家は継がせず、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏の養子にやり、娘に婿養子を取りました。置塩2代目城主となる義村です。義村は、円心の長男・光範から数えて8代目ですので、まさに直系でした。しかし、義村の後見に就いた守護代の浦上村宗と、亡き政則の後室・洞松院が災いをもたらします。

    世は戦国時代となり日本中で「下剋上」の雲行きとなっていました。赤松家でも同じです。浦上村宗は守護代の地位を利用して実権を握り、それに反発した城主の赤松義村を戦いでねじ伏せ、1521年には、たつの市の室津に幽閉した末、殺してしまいました。

    これに黙ってはいない赤松一統は、義村の子・晴政を密かに置塩3代目城主に据えました。一方、浦上村宗は飛ぶ鳥を落とす勢いで、一時は播磨・備前・美作の3国を実質支配しました。さらに勢力を拡大しようと細川家の内紛に加担し、細川高国方について各地を転戦します。置塩3代目城主・赤松晴政もこの戦いに加わり、尼崎での「大物崩れ」で村宗を背後から襲い、ついに下剋上でのし上がろうとする政敵・浦上氏を倒しました。

    しかし、これで終わらないのが「戦国時代」です。殺された浦上村宗の子が親の敵とばかり立ち上がったかと思えば、出雲から尼子氏が攻めてきたりします。騒乱の模様は次回のお楽しみです。