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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年9月23日(日) 08時30分

    感状山城と置塩城(下)

    2018年9月18日(火) 放送 / 2018年9月23日(日) 再放送

    姫路市夢前町にある置塩城の3回目です。この城は、海抜370メートルの置塩山にある赤松氏の山城で、赤松一族が「嘉吉の乱」後の逼塞17年を経て、赤松政則が復活させて築城しました。時に1469年でしたが、落日まで5代、約100年間しか持ちませんでした。

    前回は、初代の政則と、2代目義村、3代目晴政までお話しました。2代目義村は初代政則の娘婿でした。円心の長男・光範から数えて直系の8代目でした。しかし義村の後見に就いた守護代の浦上村宗が曲者で、1521年には赤松義村を室津に幽閉し、殺害しました。

    これに赤松一統が対抗し、義村の子・晴政を密かに置塩3代目城主に据えます。一方、赤松義村を殺した浦上村宗は、勢力拡大のため細川家の内紛に加担し、細川高国方について各地を転戦します。赤松晴政もこの戦いの反対勢力に加わり、尼崎での「大物崩れ」で浦上村宗を背後から襲い、ついに下剋上を図った政敵・浦上氏を倒しました。

    時は戦国ですので、報復の応酬となります。今度は、赤松晴政に殺された浦上村宗の息子・政宗が立ち上がります。さらに1538年には出雲から尼子晴久が大軍を率いて播磨に侵攻してきたため、たまらず赤松晴政は摂津へ逃れます。幸い尼子氏は2年後に播磨から撤退し、晴政は帰国しますが、浦上政宗との対立は続きました。晩年となった政宗が、浦上氏の復権を目指して3代目の赤松晴政を追放し、強制的に晴政の息子・義祐に家督を継がせました。

    赤松晴政は仕方なく置塩城を離れ、龍野城主の赤松政秀の庇護を受け、1565年に亡くなりました。龍野の政秀は、晴政の娘婿であり、政秀の父・村秀は置塩の初代城主・赤松政則の庶子で、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏の養子に出ていました。置塩3代目の晴政が頼ったことで、本流ではない龍野赤松氏の勢いが増し、対立の構図が複雑になりました。

    赤松晴政を置塩城から追放した浦上政宗はまた、弟・宗景と長年、同族で対立していましたが、1563年に和睦が成立したのを機に再起を図ろうとします。黒田官兵衛の父・職隆が当主だった播磨黒田家との縁組みです。しかし翌年1月、室津の室山城で職隆の娘(官兵衛の妹)と浦上政宗の息子・清宗との婚礼の日、龍野城主・赤松政秀の奇襲を受け、浦上政宗・清宗の親子ともに戦死する悲劇があったのは、複雑な対立の証しです。

    さて置塩城4代目の赤松義祐は、守護代の浦上政宗によって無理やり城主に据えられましたが、この頃、浦上氏は美作で勢力を張り、備前では宇喜多氏が牛耳っていまして、置塩の赤松氏の所領は、西播磨の三つの郡だけとなっていました。その義祐も1576年に死去します。