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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年9月30日(日) 08時30分

    置塩城と室山城

    2018年9月25日(火) 放送 / 2018年9月30日(日) 再放送

    姫路市夢前町にある置塩城について3回にわたってお話しましたが、少し落ち穂拾いと復習をします。置塩城は、海抜370メートルの置塩山にある赤松氏の山城で、赤松氏を復活させた政則が1469年に築城しました。以来、5代にわって約100年間続きました。しかし、下剋上の戦国の荒波にもまれ、決して平穏ではありません。

    置塩城の守りは多くの曲輪によって固めており、小さいものを含めると60以上もあります。さらに周辺には、枝城が点在していて、小屋谷城 鞍掛山城 番城山城などに加え、世界遺産の姫路城も枝城の一つでした。ただし、江戸初期に池田輝政が築城した城ではなく、その前の秀吉の城でもなく、さらに前、赤松円心の次男・貞範が築いたとされる、砦のように小さかった時代の姫路城です。この頃、黒田氏の主君だった小寺氏が置塩城の枝城としての姫路城主だったと思われます。

    このように置塩城と初代の姫路城とは「主従の関係」にあったわけですが、いよいよ5代目の赤松則房の時、1577年、秀吉の播磨平定に降伏し、後に秀吉が四国を攻める際に功があったため、則房は徳島県藍住町に1万石の所領を得て住吉城に移ってから置塩城は廃されました。秀吉は姫路城を大幅に改修するに当たり、置塩城の用材を転用したとされます。

    さて次は、たつの市御津町室津の室山城です。地名そのままに室津城とも言います。先に置塩城4代目の赤松義祐の頃、黒田家と縁組みして再起を図ろうとした守護代の浦上政宗の息子・清宗との婚礼の日、龍野城主・赤松政秀の奇襲を受け、浦上親子がこの室山城で戦死し、室山城は炎上して廃されました。

    室山城の海抜はわずか53メートルしかありません。一般的な山城の基準には達していないので「丘城」とでも呼ぶべきでしょう。築城年代ははっきりしませんが、赤松円心の頃とも言われます。円心が上郡町の白旗城にいて、室山城に長男・範資を置いて守らせましたが、後醍醐天皇方の新田義貞によっていったん落城しました。しかし九州へ逃れていた足利尊氏が再び大軍を率いて上洛すると、新田軍は白旗城の囲みを解いて退きました。

    戦国時代には、初代置塩城主・赤松政則の家臣・浦上則宗が室山城主となっていましたが、後に則宗の兄の曽孫・浦上政宗の次男・清宗と黒田官兵衛の妹の婚礼の日、龍野城主の赤松政秀によって急襲され政宗・清宗父子は討ち死にし、室山城は廃されました。

    室山城は南へ突き出た半島にあり、一番高い所に本丸、北側に二の丸があったらしいのですが、はっきりした遺構は見当たりません。道路脇に「室山城跡/遠見番所跡」の石碑があり、近くには「室津二ノ丸公園」が名残をとどめています。