龍野古城(上)
2018年10月2日(火) 放送 / 2018年10月7日(日) 再放送
たつの市龍野町上霞城には、江戸時代初期に築城された「近世龍野城」と、それ以前の中世の城跡があります。紛らわしいため、古い方を「龍野古城」と呼びます。今回は、その古い龍野城のお話ですが、たつの市御津町室津にある室山城の浦上氏を攻めて廃城に追い込んだのは、ほかならぬ龍野古城の2代目城主・赤松政秀でした。
その赤松政秀とは、どんな系統の人物でしょうか。赤松円心にまでさかのぼります。赤松家は、円心の三男・則祐の孫・満祐が起こした「嘉吉の乱」で逼塞しますが、満祐の弟・義雅の孫・政則が復活させます。その政則が姫路市夢前町に置塩城を築き、5代、約100年続きます。置塩城2代目城主の赤松義村は初代・政則の娘婿で、円心の長男・光範から数えて8代目の直系です。置塩城3代目城主は、義村の息子・晴政で、その娘婿が政秀ですが、少々いわくがあります。政秀の父・村秀は、置塩の初代城主・赤松政則の息子ですが、側室の子だったため本家は継がず、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏の養子に出ていました。
龍野古城へと話を進めます。龍野城には別名が幾つかあります。鶏籠山城、台山城、朝霧城、それに「かすみ城」と書いて霞城などとも呼ばれます。霞城は地名にもなっていて、龍野城がある場所は上霞城と言います。たつの市街を見下ろす海抜218メートルの鶏籠山の山頂部と南麓に位置する山城です。江戸時代に築かれた近世龍野城は、古城の南の麓にあります。ご多分に漏れず、古城の築城年代や誰が築いたのかは定かではありませんが、1499年ごろ、赤松一統の宇野政秀が築いたとする説。また、赤松家を復興し、置塩城を築いた赤松政則が1500年に、庶子の村秀に与えたとも言います。
そして、厄介なのは「政秀」なる人物が赤松関係で複数いる点です。村秀の養子先・宇野氏の養父(または養曽祖父)も政秀とされます。宇野氏の政秀については、混乱を避けるため以後触れず、「政秀」は宇野氏の養子となった村秀の息子・赤松政秀を指すことにします。
宇野村秀は御津町の塩屋城から龍野古城に移り、本家の赤松氏を名乗りますが、1540年に病死した後は息子の政秀が継ぎました。政秀は置塩3代目城主・赤松晴政を助けました。晴政が内紛で置塩城を追われた後、龍野古城に迎え入れ、宿敵である浦上政宗の本拠地・御津町の室山城を攻め、落城させました。しかし、この赤松政秀も後に毒殺されてしまいます。
赤松政秀没後は、長男・広貞が継ぎ、後に次男・広英(秀)が龍野古城の城主になったと思われます。次男・広英が城主の時、秀吉に攻められ、戦わずに恭順し、秀吉軍の一員として各地を転戦しました。この軍功が認められ、赤松広英は朝来市の竹田城主に任じられました。