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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年10月21日(日) 08時30分

    近世龍野城(上)

    2018年10月16日(火) 放送 / 2018年10月21日(日) 再放送

    この番組の趣旨は、タイトル通り、エリアは「西播磨県民局管内」の相生、たつの、赤穂、宍粟の4つの市と、揖保郡太子町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町の3つの町で、しかも「山城」に限定するのが建前ですが、お城を語るに当たり、関連事項に触れないと、「いびつな寸詰まり」となってしまいます。これまでも姫路市の坂本城や夢前町の置塩城などはエリア外の例ですが、前回取り上げた、たつの市御津町の室山城は、山城と言うには「53メートル」と低すぎる「寸足らず」の点で条件から外れるのですが、今回の「近世龍野城」も同様に、山城の一般的基準「海抜200メートル」に足りません。

    前にも少し触れましたが、古城から突然「近世の城」に変わったわけではありません。時代の流れと必要性に応じて、城が山から麓に降りてくるのは、中世から近世へと世の中が変わるのに合わせての必然で、龍野城に限った話ではありません。

    では、蜂須賀小六が龍野城で4年間在任した後、1585年に徳島へと転じた頃から、龍野城の様子を見ましょう。目まぐるしく城主が交代しますが、城そのものも変化していきます。まずは、なぜ龍野の城主が次々と短期間で交代していったのでしょうか。『日本百名城』の著者・中山良昭氏は「城や城下町が、5万石前後の中堅程度の城主には適当な大きさで、交通の便も悪くないので、城主の入れ替えがしやすかったのでは」と推測しています。

    蜂須賀氏の後は福島正則ですが、福島は広島藩主となった後、城を勝手に修築したとして徳川将軍の怒りを買って失脚します。次いで秀吉の甥・木下家定の息子・木下勝俊。さらに出石藩主から岸和田藩主に転じる小出吉政。そして知名度の低い山口広貞なる人物を経て、一時は秀吉直轄の蔵入地となります。江戸時代に入ると、姫路城主・池田輝政が龍野を含む播磨全域を支配します。

    1617年、その姫路藩が52万石から42万石を経て15万石に縮小するのに伴い、姫路藩領だった播磨各地の拠点が藩として独立し、龍野藩も本多政朝が入って復活しました。しかし、いずれも任期は短く、順に小笠原氏、岡部氏、京極氏と短期政権が続きました。

    京極氏は、龍野から四国の丸亀に移るのですが、後は幕府直轄になるのを知ると、城の建物を解体して、建材から石材に至るまで残らず赴任先の丸亀まで運んでしまいました。結局、廃城になって14年後、龍野藩は復活します。しかし、1672年に着任する後任の脇坂安政はいい迷惑でした。