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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年10月28日(日) 08時30分

    近世龍野城(中)

    2018年10月23日(火) 放送 / 2018年10月28日(日) 再放送

    龍野城は、新旧2つの時代に分かれます。古い方の龍野古城は、赤松政則の側室の息子・村秀が本家を継がせてもらえず、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏へ養子に出されていたのですが、新たな拠点として龍野古城が築城されたため、こちらの初代城主となりました。その際、宇野から出自の赤松に姓を戻したようです。以来、龍野赤松氏は4代、約70年にわたり、当時、本家だった姫路市夢前町の置塩城主を助けながら勢力を張りました。

    龍野赤松氏の4代目・広英は、秀吉の播磨攻めに降伏し、以来、秀吉軍の一員として四国攻めなどで活躍した結果、朝来市の竹田城主となります。その後の龍野古城は、徐々に中世山城から近世の平山城へと変わっていきます。赤松氏4代の支配が終わると、安土桃山時代から江戸初期にかけて、目まぐるしく城主が交代していきます。変転の最後となった京極氏は、龍野から四国の丸亀に移るのですが、まさに「後は野となれ山となれ」そのままに、城下町を濁して去っていきました。

    「城を解体して、建材から石材に至るまで残らず赴任先の丸亀まで持っていった」と言いましたが、当時この話は余程、衝撃的だったようで、“尾ひれ”が付いたような伝説が地元に残っています。京極氏の離任と同時に龍野城が廃されたため、建物はことごとく破却されたとされ、その理由として「徳川将軍が、一夜のうちに城を壊して別に移転できるなら一城を与えると京極氏に言った」とか、実際「一夜で城を解体して揖保川から運んだ」、さらには「一石一材まで丸亀に持ち去った」などというものです。

    結局、京極氏がすったもんだの末、丸亀に去り、龍野城が廃されて14年後、龍野藩は復活するのですが、1672年に、復活した龍野藩主に信州・飯田から着任した脇坂安政こそ、いい迷惑でした。ほとんど何も残っていない状態の、まさに「一から」築城をしなければなりません。麓の城は無くても鶏籠山頂の龍野古城は、ほったらかしで残っていたはずですが、さすがに江戸時代に入って「今さら山城はない」と判断したのでしょう。脇坂氏は、着任翌年には何とか屋敷を完成させました。恐らく、池田氏や本多氏時代の石垣の上に、そのまま急ごしらえの陣屋造りの城を建てたと思われます。

    着任早々、城も陣屋もない状態から、ばたばたと城普請にいそしんだ脇坂氏でしたが、これまでの短期政権がうそのように安定し、藩主がしっかりと龍野の地に根を張り、以来10代にわたって明治まで続きます。

    現在の龍野城跡は、2層の隅櫓以外は、昭和50年代に脇坂時代の古い絵図に基づいて復元されています。