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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年11月4日(日) 08時30分

    近世龍野城(下)

    2018年10月30日(火) 放送 / 2018年11月4日(日) 再放送

    たつの市龍野町上霞城にある近世龍野城の(下)です。龍野赤松氏が支配した約70年の後、龍野城は中世山城から、近世の平山城へと変わっていきます。と同時に、安土桃山時代から江戸初期にかけて城主が目まぐるしく交代します。その初代は蜂須賀小六で、龍野城には4年間いただけで徳島へと転じました。その後は、福島正則、木下勝俊、小出吉政、山口広貞、そして秀吉の直轄地を経て、一時は池田輝政が播磨全域を支配した後、本多政朝が入って龍野藩が復活しましたが、小笠原長次、岡部宣勝、京極高和と短期政権が続きました。

    この後、14年間の幕府直轄地時代に城跡が荒廃しましたが、1672年に、復活した龍野藩主として信州・飯田から脇坂安政の着任後は10代も安定政権が続きました。ただ当初は、住む屋敷がないため、藩主も商家の那波屋新右衛門宅を居館とし、藩士らも商家や農家での間借りを余儀なくされました。

    藩主の最初の仕事は城の再建と武家屋敷の建設でしたが、築城は幕府の命令で実施されました。まず石垣・堀・櫓・門などの修復から着手し、自然地形を利用した本丸・二の丸・三の丸の曲輪が造られました。規模は大きくなくても御殿風の立派な建物だったとされます。

    脇坂氏と言えば、安治が賤ケ岳七本槍として有名ですが、その後も信望の高い人物が出ています。赤穂藩主・浅野長矩が江戸城で吉良義央に刃傷に及び、切腹・改易となった際、赤穂城受け取りの正使に選ばれたのが、安政の息子・安照で、しばらく赤穂在番を務めました。

    龍野脇坂氏10代の中でも8代・安(ただ)が傑出しています。24歳で幕府の寺社奉行に抜擢され、腐敗した宗門を厳しく取り締まり、延命院事件などを解決させ、大いに名を上げました。16年のブランクを経て奉行再登用を知った江戸庶民は大喝采で迎えました。当時の落首が振るっています。「また出たと坊主びっくり貂の皮」。貂は脇坂家の旗印です。

    また出石藩で起きた仙石騒動を見事にさばいた際には「5万石でも脇坂様は、花のお江戸で知恵袋」と賞されました。江戸での活躍が知られますが、龍野領内でも特に経済振興に力を入れました。藩内の物価を調査して決定する「価定方(あたいさだめかた)」という役所を設け、物価の安定に努めました。さらに今に続く地場産業の「淡口醤油」造りも奨励しました。

    そして、9代安(おり)は京都所司代から老中にまで出世しましたし、最後の10代安(あや)の時、幕末の難しい舵取りを迫られる中、戊辰戦争が起きると、新政府側について越後方面に出兵し、幕府とともに朝敵にされる事態を免れました。