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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年12月30日(日) 08時30分

    長水城(中)

    2018年12月25日(火) 放送 / 2018年12月30日(日) 再放送

    今回は「長水城(中)」です。宍粟市山崎町宇野にある長水城は、海抜584メートルにも上る長水山の山頂にそびえています。中世山城の典型とも言える、まさに「戦いの城」にふさわしく、戦国時代に終わりを告げる激しい戦闘が繰り広げられました。

    戦のきっかけは、秀吉による播磨攻めで、各地でさまざまな戦いがありました。大筋は、西日本の中国地方に根を張る毛利氏と出雲から播磨をうかがう尼子氏や備前の新興勢力・宇喜多氏、そして守護代の浦上氏が絡み、調略という名のだまし合いでもありました。

    天正5(1577)年、毛利攻めのため秀吉が播磨に入ると、宇野氏ら播磨の武士たちは信長に従い、同年末には、宇喜多氏に属していた佐用郡の上月城は一度落ちました。しかし翌年4月、信長方として上月城の守備に当たっていた尼子勝久や山中鹿之助らが毛利の大軍に囲まれると、5月、秀吉はこれを救援できなかったため、信長の命で上月城を見捨てました。7月、陥落した上月城を見て慌てた宇野氏は、毛利方に寝返りました。上月城については、複雑な攻防が繰り広げられましたので後日、改めて取り上げます。

    11月の宇喜多氏の文書に、毛利方に付いた播磨衆の中に宇野氏の名も見えます。天正7(1579)年、今度は宇喜多氏が毛利氏を見限って秀吉側に付くと、形勢は一気に信長方が有利となりました。翌年正月、「干殺し」の末、三木城が落城した後の閏3月、毛利氏に寝返っていた宇野氏が、仲間の小早川隆景に援助を求めましたが、「播磨衆は当てにならない」と、見捨てられてしまいました。

    播磨での戦いは、4月には宍粟郡に移り、いよいよ宇野氏の牙城に迫ります。長水城の北東の清野(せいの)五十波(いかば)の砦が攻め落とされ、さらに伊沢川を挟んですぐ南の峰にある篠ノ丸(ささのまる)城も陥落、長水山では麓が焼き払われました。山中の3カ所に付け城を築いた秀吉軍は、包囲する軍勢を残して姫路・飾磨の英賀方面に転進しました。

    「こうなれば長水城は簡単に攻略できる」と秀吉がにらんだ通り、既に秀吉側に付いていた播磨衆が、長水城に立てこもる同族の宇野氏や初期の長水城主を務めた広瀬氏ら赤松一統を攻め立てました。播磨衆の中心は、赤松政則の玄孫で後期赤松氏の5代目・則房とその配下でした。長水城にこもる宇野氏全滅も時間の問題でしたが、一族郎党全てが城を枕に討ち死にしたわけではなかったようで、城主らがひそかに城から脱出したとされています。いったん生き延びた宇野氏については次回です。