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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年1月6日(日) 08時30分

    長水城(下)

    2019年1月1日(火) 放送 / 2019年1月6日(日) 再放送

    今回は、「長水城(下)」です。宍粟市山崎町宇野にそびえ、難攻不落を誇ったさすがの長水城も、秀吉と赤松則房を中心とする播磨衆の連合軍に攻め立てられては、どうしようもありません。結局、天正8(1580)年5月、落城してしまいました。この結果、秀吉の播磨平定がなりまして、黒田官兵衛には、今のたつの、姫路両市の一部と太子町全域に当たる「揖東郡1万石」が与えられ、後に長水城の枝城だった篠ノ丸(山崎)城が与えられます。

    長水城で籠城した宇野氏の家族関係を整理しておきましょう。長水城主は宇野祐清で、その兄・満(光)景と父・政頼は、伊沢川を挟んですぐ南にある篠ノ丸城にいました。祐清の弟(政頼の三男)宗貞は新免氏の養子となり、現岡山県の美作国大原城主でした。そして、祖父・村頼もまだ健在でした。そこで、長水城主の宇野祐清は、ひそかに城を脱出し大原城主の弟を頼ろうとして、美作に向かいました。ところが、梅雨で増水していた千種川を渡れずにいたところへ、追っ手の蜂須賀小六(後の龍野藩主)らに追い付かれて自害しました。

    しかし、政頼の末っ子で祐清の弟が、佐用町船越にある瑠璃寺にたどり着き、後に名を真賢と改めて住職となりました。後に宇野氏供養のために宍粟市千種町千草に五輪塔4基と板碑1基を建てました。この事跡から宇野氏の生き残りが、新免宗貞にほか、もう1人いたことになります。また千種町鷹巣(たかのす)にも秀吉勢を食い止めようと奮戦した宇野氏の家臣を供養する五輪塔が残っています。

    宇野氏一族が頼りとした大原城主の新免氏は長水城落城の3年近く前、既に秀吉に降伏し、長水城が危うくなった時は、佐用町平福の利神城の守備を命じられていたため、たとえ宇野氏が大原城にたどり着いたとしても、保護されたかどうか疑問が残ります。しかし、祐清の祖父・村頼はあらかじめ大原に逃れていたのか、翌年3月に当地で没したとされています。

    さらに、史実的には疑わしいものの、あと1人、関係者がいます。慶長7(1602)年、黒田官兵衛の息子・長政が藩主を務める福岡藩家臣の山崎氏が「宇野祐清の子」と自称しました。関ケ原の戦いで西軍の宇喜多氏に従って敗れた新免氏と共に、幸運にも東軍の黒田氏に召し抱えられたとしています。

    このいきさつは次のように語り継がれています。祐清の祖父・村頼と祐清の妻子が長水城落城の前に大原城に避難して生き延びたが、子は、秀吉に盾突いた宇野姓でははばかられるため、長水城の地名から山崎に変えたのではないか―との推察です。いずれにしても、この長水合戦で宇野氏が滅び、播磨の中世が終わりました。