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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年1月13日(日) 08時30分

    長水城から山崎城へ

    2019年1月8日(火) 放送 / 2019年1月13日(日) 再放送

    今回は、宍粟市山崎町にある2つの城のお話です。同町宇野にそびえ、難攻不落を誇った長水城も、秀吉の播磨攻めであえなく落城してしまいました。最初に城主を務めた広瀬氏も後に城主となった宇野氏も、いったんは城から脱出できたものの、結局は、もろ共に討ち死にしました。しかし、この戦いをもって1世紀も続いた戦国の世も終わりを告げ、安土桃山時代から、戦いのない江戸時代へと向かいます。

    戦国最後の「戦いの城」として、象徴的な長水城の姿を改めて見ていきましょう。この城に「広瀬城」の別名があるのは、最初の城主を、赤松円心の長男・範資の四男・広瀬師頼が務めたからですね。広瀬氏については既に述べましたが、後に長水城主となる宇野氏と共に赤松氏を支える重要な一統でした。ただ、刻々と揺れ動く複雑な戦国模様の中、信長・秀吉側に付いた、円心の三男・則祐につながる赤松則房の本宗家に対して、毛利氏との古い付き合いを重視した広瀬・宇野連合の同族対決の末、長水城は落城してしまいました。

    城は長水山の山頂から東の尾根先をさらに北側へと曲輪を配した所が「本丸」で、山頂から南方の尾根に「二の丸」、さらに南東に「三の丸」が配置されています。現在、本丸の山頂部に信徳寺という日蓮宗の寺院がありまして、残っている石垣は、城郭の遺構とされています。

    二の丸へは尾根を一度下ったあと再び登った所に曲輪があり、休憩所となっていますが、本丸の南側の曲輪からゴツゴツとした岩がむき出した、細い尾根を降りた先は、平坦な面が段となって続いています。三の丸は、そこから南東に伸びる尾根にありまして、二の丸と同じく平坦な面が幾段も続いています。

    この長水城に登るには、コースが2つあります。「大手」は山崎町宇野の伊水小学校からの道、「搦手」は同町五十波から林道があり、登山道が続いています。ここからだと高さは300メートルほどとなります。

    中世山城の典型である長水城は、伊沢川を挟んで南へ3.5キロに位置する「篠ノ丸城」と共に、文字通り中世の終焉に合わせるように役割を終えます。やがて来る近世は、さらに南側の平野部の段丘上に建てられた「山崎城」が脚光を浴びる時代へと変わっていきます。山崎城は「鹿沢城」とも呼ばれるように、現在の山崎町鹿沢にありまして、菅野川が揖保川に合流する北側の丘の上にあるとはいえ、「近世平城」に分類されます。江戸時代には最大で宍粟、佐用の両郡ほぼ全域を治める6万1000石の山崎藩の象徴となりました。

    次回から2回、篠ノ丸城と山崎城を取り上げます。