篠ノ丸城
2019年1月15日(火) 放送 / 2019年1月20日(日) 再放送
今回は、宍粟市山崎町にある「篠ノ丸城」です。同町宇野にそびえる中世山城の典型である長水城は、伊沢川を挟んで南へ3.5キロにある、この「篠ノ丸城」とネットワークを組んで、中世を生き抜いてきました。しかし、秀吉の播磨攻めで、共にあえなく落城してしまいました。文字通り「中世の終焉」に合わせるように役割を終えたわけです。次の近世は、さらに南側の平野部段丘上に建てられた平城の「山崎城」が脚光を浴びる時代へと変わります。
篠ノ丸城は、近世の山崎城との混同を避けるため「中世山崎城」とも呼ばれますが、ここでは篠ノ丸城に統一します。その篠ノ丸城の起源は、南北朝の初期、1340年前後と思われまして、初代城主は、諸説ある中、円心の叔父、つまり円心の父・茂則の末の弟・釜内小次郎範春とします。
初代範春から約100年、政則-成久-成勝と4代続きましたが、1441年、円心の三男・則祐の孫・満祐による「嘉吉の乱」のため、室町幕府方に攻められて落城したと伝えられます。17年後、満祐の弟・義雅の孫・赤松政則によってお家が再興されると、3.5キロ北の長水城に一族の宇野氏を入れ、こちらの篠ノ丸城にも、その配下を住まわせたようです。
赤松氏復活から80年後の1538年に、出雲から尼子氏が播磨に攻め込んできた際は、篠ノ丸、長水の両城共に落城し、2年間、尼子氏の支配下に置かれます。尼子氏が播磨から去ってからは、再び宇野氏が復帰しますが、『播磨鑑』には、宇野氏の親子間であつれきがあったようなことが書かれています。
つまり、長水城に宇野政頼が入り、その子・光景を篠ノ丸城主に据えたが、「いかなる故にや父子の仲悪しくして光景を殺して、家来・内海左兵衛と言いし者を入れ置きけるが、これも長水の城と同時に落城しけり」とあって、結びには「落ち易きアラレの玉や篠ノ丸」と歌にまで詠んでいます。しかし、この内紛を疑問視する向きもあり、さらに秀吉軍の播磨平定の前に長水、篠ノ丸とも落城していたとの説もあります。
今の篠ノ丸城の様子を見ましょう。山崎町の中心部北側の尾根の頂上で、本丸は海抜325メートルにあるのですが、住所地は横須・上寺・門前・加生の4地区にまたがっています。中世山城にしては山頂部が広く、南北55メートル、東西40メートルのほぼ四角形で、十分な居住空間があります。本丸の南西隅から西側に、3メートルほど高い所に「二の丸」がありまして、本丸北斜面には多数の曲輪を階段状に並べて「搦手」の守りとしています。篠ノ丸城をこの形に完成させたのは、戦国末の宇野氏で、落城後に入る黒田官兵衛の手は、ほとんど入っていないとされます。