上月城(中)
2019年2月5日(火) 放送 / 2019年2月10日(日) 再放送
今回は上月城の2回目です。佐用町上月にある上月城は、上月氏初代の景盛が築城しましたが、「嘉吉の乱」のため4代100年余りで本家は滅亡しました。その後、上月氏3代目・盛家の弟の流れをくむ上月満吉が赤松政則の軍に参加し、南朝に奪われた神璽奪回に成功するなど手柄を立てました。
この奪回作戦の21年後、1478年に戦いの経緯を記録し、堀出雲守秀世が署名して記述内容を保証しました。上月城は初代上月氏が建て4代続いた後、1483年からは山名氏に攻められ、山名氏が衰えると、今度は出雲から尼子氏に攻略されて、1538年に落城。その後も大内氏・浦上氏・陶氏の襲撃に遭い、目まぐるしく城主が交代しました。
やがて佐用郡を支配する赤松氏の居城となり、1577年頃、赤松氏を復活させた政則の養子・義村の息子・赤松政元が、姫路市夢前町の置塩城から上月城に入り、その息子・政範の時代には、西播磨5郡を支配し「西播磨殿」と呼ばれ、16万石の大勢力になっていました。
しかし上月氏は大活躍したにもかかわらず、結局、先祖の上月城への復帰は果たせず、置塩城主の赤松氏に仕えました。
いよいよ戦国末期となると、上月城は、播磨・備前・美作の3国の境界に位置するが故に、防衛拠点として分捕り合戦の的となります。西の毛利氏に対して東から攻めてくる信長方の秀吉軍というのが基本構図ですが、この時代、播磨衆の多くは、東西のどちらに付くのか思案投げ首の状態ながら、地理的要素から当初は毛利方に付いていました。しかし、情勢を見ていた宇喜多氏が信長方に付いた途端、こちらが一気に優勢となり、上月城の運命も世の流れに翻弄され、揺れ動きました。
上月城は小規模ながら堅牢な山城で、毛利氏に属していた赤松政範および宇喜多直家が播磨方面の軍事拠点として押さえ、毛利勢力圏の東方の最前線となっていました。この時点で上月城の主の赤松政範は、紛らわしい名前ですね。こちらの政範は、政治の「政」に模範の「範」と書きますが、赤松氏を復活させた、政治の「政」に規則の「則」と書く政則は、もちろん別人で、上月城主の方は、有名な赤松政則の曽孫に当たります。
その赤松政範と宇喜多直家の守る上月城が1577年、信長側が中国攻略に着手し播磨に入ると、秀吉の猛攻撃を受けていったん陥落します。これを「第一次上月城の戦い」と言いますが、詳しい戦況とその後については次回のお楽しみです。