上月城(下)
2019年2月12日(火) 放送 / 2019年2月17日(日) 再放送
今回は上月城の3回目です。1577年、信長側が中国攻略に着手し播磨に入ると、秀吉の猛攻撃を受けて上月城はいったん陥落する「第一次上月城の戦い」について前回お話しましたが、上月城を守る側としては、どのような心構えでいたのでしょうか。地元に残る『佐用軍記』によると、秀吉は、戦前の教科書で有名な山中鹿之介らを使者として上月城に送り、信長と秀吉の親書も持たせて「味方に付くよう」説得しました。これに対して、赤松政範は「この城は8年間に12回の戦いでも不覚を取っていない。城を枕にしても信長には従えない」と篭城を決め、守りを固めて、精いっぱい防備をしていました。
この時の上月城の兵力は最大1万3000と言われています。対して秀吉軍は、1万の軍勢を4つの隊に分けました。竹中半兵衛、黒田官兵衛らの先陣は、上月城の北の守り福原城を攻撃、わずか3日ほどで落とします。秀吉の本隊は、高倉山と仁位山を目指しますが、上月側が仕掛けた乱杭のために川を渡るのに難儀しました。しかし、上月城で寝返る者が多数出たため、秀吉はやすやすと高倉山に達し、新たにキリシタン大名の高山右近も加わり、1万3000の軍勢で上月城を包囲して一気に攻め込みました。
この「第二次上月城の戦い」に勝利した秀吉は、あろうことか、生き残った城兵をはじめ、女子供も合わせて200人ほどを張り付け、串刺しにして国境に並べたと言います。これは、秀吉の生涯で唯一の残虐行為とされます。
第二次の戦いの後、毛利氏に滅ぼされた出雲の尼子氏の再興を目指す尼子勝久を担ぐ山中鹿之介ら、信長方に属していた尼子氏再興軍が上月城の防衛を任されました。後に一時は、宇喜多氏が逆襲して奪還しましたが、再び信長方の手に渡りました。
しかし秀吉は上月城を奪取した後も、表向きは信長方に従いながらも、立場を明確にしない別所長治や小寺政職ら播磨勢の懐柔に手を焼きました。1578年、別所氏が毛利側に寝返ると、東播磨の諸豪族の大半がこれに同調し、別所氏の本拠・三木城の7500を中心に篭城戦の構えを取ります。一方、秀吉軍の上月への進出によって、毛利氏も早急に大軍を派遣して三木の別所氏を援護する必要に迫られました。
いずれにしても、この時点で信長と毛利の戦線における最重要拠点は上月城から三木城へと移り、両陣営にとって上月城の価値は一気に下落しました。しかし、毛利軍は6万余りの大軍で上月城に攻めかかりました。急を聞いた秀吉軍は2万1000の軍で高倉山に本陣を構えて毛利勢に対し、やがて信長の援軍と合わせ7万5000にも達したとされますが、三木城攻めの方が重要と判断し、上月城は見捨てられました。忠臣・山中鹿之介と共に尼子氏はここに滅びました。