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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年2月24日(日) 08時30分

    茶臼山城

    2019年2月19日(火) 放送 / 2019年2月24日(日) 再放送

    今回は、赤穂市坂越にある茶臼山城です。これまで取り上げた山城のほとんどが内陸にありました。今回は珍しく「海の見える山城」です。忠臣蔵で有名な赤穂城から北東へ直線距離で5キロ余り。千種川に架かる坂越橋を渡り、トンネルを抜けた所の坂越港の北側にあります。2こぶラクダのように茶臼山とすぐ北に宝珠山が並んでいます。茶臼山にはお城が2つありまして、坂越港のすぐ北側、山のふもとにあるのが「坂越浦城」で、そこから奥へ登山道を登った頂上に「茶臼山城」が控えています。

    茶臼山は海抜160メートルほどですので、山城の標準には少し足りません。坂越浦城に至っては高さが50メートルほどしかありませんので「丘城」あるいは「海城」と言った方がいいでしょう。同じ丘城に区分される、たつの市室津の室山城と似ています。こちらは海抜53メートルでした。

    ふもとの坂越浦城は、大避神社の西側で、現在は公園になっていて、その北側に登山口があります。茶臼山城への道は、正式には「宝珠山舗装登山道」と言いますが、1970年にNHKのテレビ中継放送所を建設する際に整備されたため「中継所点検道路」とも呼ばれ、車で行くのに便利です。頂上からの眺めが良く、天然記念物の原生林が残る生島(いきしま)や坂越浦が一望できます。

    山の名の由来は、頂上全体が、二重の岩盤から出来ておりまして、形が茶臼に似ているためとされます。頂上は広々としていて、東西27メートル、南北13メートルにわたり平坦な土地が広がっているのですが、遺構らしきものがほとんどないのが残念です。今は、1995年に奉納された和田備後守範長公一族を祭る新五輪塔と、わずかに数基の石仏が鎮座しているだけです。

    和田範長は、備前・熊山城主だった児島高徳の義理の父で、後醍醐天皇に味方して足利尊氏と赤松円心らとの戦闘の末、1336年、この坂越浦で力尽きまして、阿弥陀が宿の辻堂で一族 5人が自害しました。戦いの後、敵将で相生の那波城主だった赤松系の宇野重氏は、大日寺で懇ろに葬礼をしました。山の中腹に妙見寺、そしてやや上には、1929年の「弘法大師千百年御遠忌(ごおんき)」記念に建てられた「奥の院」もあります。

    『赤穂郡志』によると、1441年の嘉吉の乱によって播磨国守護・赤松満祐を滅亡させた山名宗全が、乱の後、赤松氏残党の逆襲に備えて、茶臼山城を築城したと言います。予感通り乱から14年後の1455年、赤松満祐の子・教康と、満祐の弟・祐尚の子・則尚らが親の敵を討とうと、茶臼山城にいる山名氏を攻めて赤松氏の再興を図ろうとしましたが、あえなく敗れました。教康は伊勢国で、また則尚は岡山県備前市の鹿久居島で、共に自害したとされます。茶臼山城と坂越浦城については、また折を見て補足したいと思います。