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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年3月3日(日) 08時30分

    楯岩城

    2019年2月26日(火) 放送 / 2019年3月3日(日) 再放送

    今回は、太子町太田にある「楯岩城」です。西播磨に限らず、かつて山城があった山は「城山」と呼ばれるケースが多いのですが、楯岩城が位置する山も城山です。この城の立地で面白いのは、城山の中腹を国道2号太子竜野バイパスのトンネルが貫いている事実です。

    楯岩城に東側の姫路方面から行くと、途中で国道2号に別れを告げ、国道179号を西へ走り、山田交差点を経て原交差点の信号を越えてしばらく山陽新幹線沿いに行き、黒岡東交差点の手前を北側へ折れて特別養護老人ホーム「聖園」を目指します。車止めゲートを越えると登山道になっていまして、途中からは山上まで整備された新道が通じています。

    ただし、途中には幾つもの大きな岩がごろごろあり、一部は石垣のように積み上げられています。この城の名前「楯岩」は、まさに盾のようになった岩が多いからでしょうか。もう一つの呼び名の「太田城」は、大字地名に基づきます。

    海抜250メートルの山上には「楯岩城大山構跡」と書かれた立て札があるため、ここは別にある太田城の出城、あるいは城の一部として機能したのかもしれません。細長い平坦地があったり、南側の急斜面の中腹に曲輪跡が残っていたり、また削平地や石垣跡らしきものも幾つかあったりしますので、間違いなく山城があったと思われます。近くには、黒岡や矢田部、山田地区に「構」が残っているため、この楯岩城と連携していたのでしょう。

    さて楯岩城は、いつ誰が根城にしていたのか、はっきりしませんが、江戸中期の『播磨鑑』によれば、後醍醐天皇が「建武の新政」を行った頃、1330年代に赤松円心の長男・範資の息子・赤松則弘(広)という人物が太田城を築城したとしています。この赤松則弘は、後に広岡五郎を名乗り、広岡氏の祖とされています。広岡氏と言ってもピンと来ませんが、大同生命の前身「加島(かじま)屋」を興した広岡家です。手っ取り早く言えば、NHKの2015年下半期の朝ドラ「あさが来た」のモデルになりました。

    その楯岩城あるいは太田城は、完成して100年余り後の1441年、赤松氏が一度滅亡するきっかけとなる「嘉吉の変」で落城してしまいます。しかし、しばらくして円心の次男・貞範の曽孫で、足利将軍の近習を務めた赤松貞村が居城し、その後130年ほど、5代にわたって続いたとされますが、天正年間の初め、1570年代の後半の頃、秀吉の播磨攻めで落城し、廃されたと思われます。

    江戸後期、姫路藩士の小屋左次右衛門という者がこの城跡に登って描いた見取図が残っておりまして、現在テレビ塔が立っている場所が本丸で、南と西北に延びる屋根の上に、二の丸、三の丸があった、かなり大規模な山城と記しています。