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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年3月17日(日) 08時30分

    利神城(1)

    2019年3月12日(火) 放送 / 2019年3月17日(日) 再放送

    佐用町平福にある利神城の1回目です。この城は海抜373メートルある利神山の頂上に位置し、麓からでも250メートルほどある、堂々たる山城ですが、主要部分が江戸期に入ってから築城された「近世山城」で、西播磨でも珍しい存在です。国の史跡ですが、指定は2017年10月と最近のことです。

    平福という町は、古くから「朝霧の名所」として知られ、かつてあった3層の天守閣の姿が霧の上に浮かんだ偉容から「雲突城」とも呼ばれました。智頭急行「平福駅」などがある町の中心部から北東方向の利神山にある連郭式の山城で、最高所に本丸があり、本丸を中心に南側に二の丸、更に南へ下った所に馬場、北東に(からす)丸、西に大坂丸、さらに西側へずっと下れば三の丸がありました。

    山頂部を中心に築城された現在の城の歴史をたどりましょう。関ケ原合戦の後、播磨に入った池田輝政が1601年、甥の池田由之に平福領2万2000石を分与したのを受けまして、由之はこの地で4年余りをかけて、遺構が残っていた中世山城を大改修しました。改修とはいえ、ほとんど新築に近いと言ってもいいほど大がかりな築城でした。

    三重の天守を構え、周辺の曲輪を全て石垣で築いた上、回廊で結び、「戦いの城」としての備えも万全でした。加えて、日常の生活面にも配慮し、山麓に城主の屋敷をはじめ武家町などを置き、街道沿いに町人の居住地を設けて、城下町全体を見事に整備しました。

    ところが、築城の名手と言われた池田由之による、技術の粋を集めた完璧な造作が、逆に裏目に出ます。城を見た姫路城主の池田輝政は、その豪壮さに腰を抜かさんばかりに驚きました。当時、江戸幕府は各地の大名たちの行動、中でも城の修理や築城に神経をとがらせていました。まだ幕府は誕生したばかりで、支配体制も固まっていないからです。

    輝政は、幕府から警戒される事態を恐れ、このままの利神城では許されないと判断し、完成したばかりの天守閣の破却を命じたとされます。築城した由之は、城が出来た4年後の1609年に、現在の岡山県倉敷市の下津井城の城番として転出しましたが、この時点で天守などの主要な建造物はすっかり取り壊されていたとされます。

    その6年後の1615年、輝政の6男・松平輝興が2万5000石を与えられて新たに平福藩が誕生し、城主となりました。ところが16年後の1631年、赤穂藩主だった兄の政綱が後継の無いまま亡くなり、輝興が赤穂藩を継ぐことになったため、平福藩は廃藩となり、利神城も廃されました。以後、この地は旗本領となり、宿場町の一角に代官の陣屋が構えられました。