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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年4月14日(日) 08時30分

    利神城(4)

    2019年4月9日(火) 放送 / 2019年4月14日(日) 再放送

    佐用町平福にある利神城の最後4回目です。これまで3回にわたり利神城の歴史について「通説」を紹介しましたが、近年、新たな事実が分かってきましたので、今回は、そんな成果に基づき「新説」を紹介しましょう。

    城郭談話会が1993年にまとめた『播磨利神城』によると、最初に築城したとされる別所氏自体に疑問をぶつけています。『赤松家播備作城記』には、佐用郡江川庄の平福にある利神城は、内海修理という人物が初めて築城し、1330年代の元弘年間に居城とあり、別所日向守が再び営んで居城という趣旨の記述があります。まず、最初の築城が通説では1349年ですから、新説の方が15年以上古いことになります。

    築城者に内海修理と称する名を記し、わざわざ「藤原氏で熱田神宮大宮司の末孫」との出自まで示しています。内海氏とは何者でしょうか。『太平記』の「神南山(こうないやま)合戦」に登場する内海十郎範秀、あるいは「桔梗(ききょう)一揆」の内海修理亮光範らに近い人物ではないかと推測されています。

    一度奪われた利神城を後に取り戻したのが別所氏とするのは通説と同じですが、新説では、赤松惣領家につながる三木別所氏とは異なり、佐用別所氏は、「嘉吉の乱」で山名方に味方して赤松惣領家を攻撃した赤松七条家系統に属するとしています。

    また通説で安土桃山時代の一時期、城を守っていたとされる、宇喜多氏配下の服部勘助の名が『浮田家分限帳』に見当たらない事実から、同時代の城の姿は不明とされていました。現在の利神城は、石垣など全て江戸初期に、池田由之の手によるとされましたが、近年の調査では、特に天守丸の構造や馬場の部分的な石垣の使用、さらには石の種類などは、もっと古い信長・秀吉時代の築城手法と考えられるようになりました。つまり、江戸初期に池田氏が入る前、既に利神山には壮大な城郭が存在していたことになります。

    では、せっかく池田由之が力を込めて築城した利神城が、完成後、程なく叔父の輝政から破却命令を受けた事実をどう受け止めればいいのでしょうか。利神城築城を命じたのは輝政に違いありません。理由は、宇喜多氏の領地を引き継いで大きくなった、備前の小早川氏をけん制する必要があったからです。ところが、後継ぎがなかった小早川氏が1602年に除封されました。こうなれば、利神城の壮大さをもってけん制する必要がないばかりか、幕府の監視の目の方こそ怖いため、もったいなくても破却に至ったと思われます。