室山城と室津の繁栄
2019年5月21日(火) 放送 / 2019年5月26日(日) 再放送
海に浮かんでいた相生の大島山城と、海を望む赤穂の坂越城を取り上げて、たつの市室津の室山城に触れないわけにはいきません。室山城は先に、姫路市夢前町の置塩城の流れでお話しましたが、ここで復習した後、長い歴史を持つ港町・室津について掘り下げます。
たつの市の室山城は、地名から室津城とも言います。海抜は53メートルしかなく、山城の基準には達していないので「海を望む丘城」の趣でしょうか。築城年代は不明ながら、赤松円心の頃とも言われまして、円心が上郡町の白旗城にいて、長男・範資にこの室山城を守らせましたが、後醍醐天皇方の新田義貞に攻められて落城します。しかし一時、九州に逃れていた足利尊氏が再び上洛すると、新田軍は撤退しました。
戦国時代には、初代置塩城主・赤松政則の家臣・浦上則宗が室山城主となりました。しかし、置塩4代目の赤松義祐の頃、浦上則宗の兄の曽孫・浦上政宗の次男・清宗と、黒田官兵衛の妹が挙式した日、龍野城主の赤松政秀に攻められ、政宗・清宗の父子は討ち死にし、炎上した室山城は廃されました。
南へ突き出た半島にあった室山城に、はっきりした遺構は見当たりません。道路脇の「室山城跡/遠見番所跡」の石碑と、近くの「室津二ノ丸公園」が名残をとどめています。
その室山城の歴史は、高々200数十年ほどですが、港町・室津は、神話の昔から2000年もの齢を重ねています。初代とされる神武天皇が九州から東征の際、先導役が室津に港を開いたのが始まりと伝えます。半島で囲まれた湾の奥にあるため「室の如く静かな港」から「室の泊」と呼ばれたのが地名の由来です。奈良時代には摂津から播磨に続く「五泊」に数えられ、陸海交通の要として「室津千軒」と呼ばれるほど栄えました。
江戸時代、参勤交代の際、船でやって来た西国大名の大半が室津に上陸し、改めて陸路で江戸を目指したため、室津は日本有数の宿場に発展して、大名らが泊まる本陣は6軒もありました。文政年間に江戸参府の際、ここに滞在したシーボルトは、賀茂神社からの眺めを「日本で見た最も美しい景色の一つ」と絶賛しました。
しかし、明治に入ると陸上交通が主流となり、鉄道・道路とも内陸部を通ったため港町は急速に寂れましたが、1994年、室津の旧市街地が県景観形成地区に指定されたこともあり、特産の養殖カキの味と共に、逆に「ひなびた美」が再認識されています。