赤松一族再び(中)
2019年6月4日(火) 放送 / 2019年6月9日(日) 再放送
「赤松一族再び」の2回目です。前回は、有名な赤松円心の4代前、高祖父に当たる源則景について、さらに則景の前の3代(あるいは2代)についてお話しました。昨年の当初は、通説として、則景が佐用荘の地頭として赤松村に土着したことで「赤松氏」が始まると話してきたことに対する異説を紹介しました。つまり、播磨にやって来て初めて土着した「赤松系人物」は、則景の祖父(あるいは曽祖父)とされ季房だったとの異説です。
では、どのようにして季房は、播磨に来たのでしょうか。どうも父親が戦いに敗れて流された結果のようです。平安後期の1107年、源義親が起こした出雲での反乱に、季房の父・師季も義親軍に加わったのですが、平清盛の祖父・正盛によって討伐され、佐用荘に流されました。
父の師季は許されて都に帰りましたが、息子の季房は佐用荘にとどまり、姓名とも改めて山田季則と名乗ったと言います。しかし、こうなると、異論の少ない「則景の前3代」が揺らぎまして、則景の祖父・季則と曽祖父・季房が同一人物となって矛盾してしまうところまで、お話しました。
このように、赤松氏の系図は矛盾だらけで、各種を総合すると実像に迫れないどころか、逆に頭を抱える事態を招きます。それを承知の上で、矛盾点も指摘しながら、播磨に残された話を拾っていくことで、謎の多い中世が少しは見えてくるような気もいたします。
さて、土着した現在の佐用町山田の地名から名乗った山田季房ですが、「房」に似た優秀の「秀」を使って「季秀」と書かれた文献も見え、混乱に拍車を掛けます。その季房と、通説ではその息子とされる季則が同一人物となります。そして一代後の山田頼範が、今度は佐用町米田付近にあった宇野荘に移り住んだことから「宇野氏」を名乗り、一説では、山田から宇野に姓を変えた頼範を「宇野氏の祖」とする見方もあります。
ちなみに、宇野頼範の「のり」は普通、範囲の「範」と書きますが、規則の「則」と書いたりもします。先祖や親子・兄弟関係を記す系図も含め、人名の漢字表記の揺れは、想像以上にはなはだしく、しゃくし定規に考えると、混乱して頭が持たなくなります。しかし、ここは大らかにいきましょう。
この宇野頼範の息子・則景が赤松村に土着し、その末の息子・家範が「赤松氏」を名乗ることになります。