赤松一族再び(下)
2019年6月11日(火) 放送 / 2019年6月16日(日) 再放送
「赤松一族再び」の3回目です。赤松氏は、村上天皇をルーツとする「村上源氏」とされますが、天皇の孫である源師房から後の代が明確ではありません。それでも数代後と思われる季房または季則が、今の佐用町山田の地名から山田と名乗り、息子の頼範が同町米田付近にあった宇野荘に移住してからは「宇野氏」に改めました。さらに頼範の息子・則景が佐用荘の地頭として赤松村に居住し、一族の安定感が出てきます。
則景は、本姓の「源」を持ちつつ父の代から「宇野」を名乗っていたと思われますが、いよいよ息子の一人・家範が「赤松」と称するに及び、飛躍していきます。しかし、赤松を初めて名乗った家範は、長男ではなく「末っ子」である点に注目しなければなりません。では一体、家範の兄たちはどうなったのかを述べる前に、父・則景の兄弟を見ておきましょう。いずれも赤松系武将として播磨では重要な位置を占めます。
赤松氏初代の家範にとって叔父の頼景は「初代佐用氏」となります。この佐用頼景に始まる佐用氏の5代目範家は、鎌倉末期の福原城主でした。弓の名手で武勇の誉れも高く、1333年、後醍醐天皇方として倒幕挙兵した赤松円心に従いまして、奮闘ぶりから、円心の四男・氏範や姫路の妻鹿孫三郎長宗らとともに「赤松八大力」に数えられました。中でも京都・伏見での「久我畷の戦い」で、幕府方の総大将・名越尾張守高家を弓で討ち取った大手柄が『太平記』にあります。初代佐用頼景の兄弟の将則は「小寺氏」の遠祖とされ、あの黒田官兵衛が仕えたのが、御着城主だった小寺氏です。
次いで初代赤松氏となる家範の兄たちはどうでしょうか。長男から順にと行きたいところですが、はっきりしませんので順不同です。景能は「間島」、頼景は「得平」、景盛は「上月」、有景は「櫛田」を名乗りまして、末の家範が「赤松氏」と言うわけです。この兄弟の中では、「上月氏」が知られる程度で、残りの間島・得平・櫛田の3氏の知名度は、あまり高くありませんが、西播磨では1城の主として君臨しました。
このように「宇野、あるいは源則景の末っ子・家範が赤松氏を名乗る」という家系の流れを見ると、赤松氏を名乗り始めた頃は、まだ「本家」と胸を張れる状態ではなかったことがうかがえます。家範の父・則景と祖父・頼範が名乗った「宇野氏」の方が、より本筋に当たるからです。そんな系図とは逆に、宇野氏は後世、赤松氏に仕えまして、円心の長男・範資の四男・師頼が初代となる広瀬氏の後を受けて、現宍粟市山崎町の長水城主となり、秀吉の播磨攻めで落城するまで、名家として栄えます。
しかし戦国の終焉とともに、栄華を極めた赤松一族も急速に衰退していきます。