赤穂城(4)
2019年7月9日(火) 放送 / 2019年7月14日(日) 再放送
「赤穂城」の4回目です。赤穂藩は大姫路藩が解体された後、1615年から池田家2代、浅野家3代、そして「元禄赤穂事件」の後始末を兼ねて5年間ピンチヒッターを務めた永井家1代を経て、森家が最も長く12代165年も藩主を務めました。
赤穂での事件は、池田時代にもあり、気が振れた藩主によって正妻や侍女らが殺されました。加えて、森家時代の最後の方にもありました。時は幕末、世が騒然とする中、赤穂藩でも方針が定まりません。11代藩主・森忠典が財政の立て直しに躍起となる中、幕府側に立つ佐幕派と、後に倒幕へと傾く尊王攘夷派に分かれ、藩を二分していました。
そのずっと以前から、2万石しかない赤穂藩では、財政難が慢性化しており、藩主も代々対策に努めてきましたが、らちがあきません。そこで5代藩主の森忠洪は思い切った財政改革を断行します。藩主自ら率先して質素倹約をしたほか、貯蓄を奨励した上、塩田開発に加え、蝋燭の原料となる櫨の植林など殖産興業に努めました。それでも、財政は改善されませんでした。
やはり、石高不足は致命的で、せっかくの特産物も藩当局だけでは統制できないため地元の豪商に委ねつつ、10代藩主となった忠徳は1809年、大坂で「塩の専売」を本格化させて打開を図りました。この時点で藩の借金は、現在の約150億円に相当する28万両あったともされます。ところが、塩の専売から3年後には全国的な生産過剰で塩がだぶつき、深刻な塩田不況に陥りました。たまらず藩は1821年、大坂での塩の専売をやめてしまいます。専売の本格化から12年後のことでした。
財政難に苦しむうちに迎えた幕末の1857年ごろ、藩政改革をめぐり保守派と革新派が対立して藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して長州へと向かいます。5年後の1862年、ついに攘夷派の下級武士13人が保守派の家老・森主税と儒学者ら2人の暗殺に至ります。この「文久赤穂事件」の後、藩論が分裂したまま幕府が倒れました。
こうして森家は、浅野家の後、クッションとなった永井家の5年を経て、廃藩置県まで12代165年も続きました。森家の先祖には、織田信長に仕え、本能寺の変で討ち死にした森蘭丸がいます。蘭丸の末の弟・忠政が森家を継ぎ、18万6000石の津山城主となりました。その津山5代目藩主・森衆利が乱心し、将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」を批判して、いったんお家断絶となったのですが、隠居していた2代藩主の長継が、岡山県井原市の西江原藩2万石を立藩します。そして次の藩主・森長直が赤穂にお国替えとなり、赤穂・森家の初代藩主となりました。