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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年7月21日(日) 08時30分

    赤穂城(5)

    2019年7月16日(火) 放送 / 2019年7月21日(日) 再放送

    「赤穂城」の5回目です。これまで4回にわたり、江戸時代に赤穂藩が成立して以降、池田家から浅野家・永井家、そして森家へ、藩主に焦点を当てて見てきました。今回は、赤穂の地に最初に建てられた城にさかのぼり、昭和46年、史跡に指定された現在の赤穂城まで、城郭にこだわってお話しましょう。

    本丸庭園と二の丸庭園が名勝に指定されている赤穂城は、所在地名から「加里屋城」とも言いまして、室町中期から後期に入る辺り、1466年から1483年ごろ、赤松一族の岡光広が大鷹山南西の麓、東有年にあった鍋子城を移したため大鷹城の別名もあります。もし1466年に築城が始まったとすると、「応仁の乱」が勃発する前の年に当たります。

    応仁の乱当時の播磨は、山名宗全を頭とする西軍に属し、西の備前・美作や北の但馬・因幡が国ごとに勢力を形成していました。築城した岡光広について詳しい史料がないのですが、一説によると、嘉吉の乱を起こした赤松満祐につながる一族とされまして、相生市若狭野町の岡城を根拠として西播磨に勢力を張った豪族らしいのですね。岡城に加え、海岸防備の必要が生じて海の砦として赤穂城を築いたと思われます。

    岡氏も山名氏と同じ西軍に属し、城の立地から瀬戸内海の制海権を握ろうとの狙いがうかがえます。何しろ、対岸の讃岐は、敵対する細川氏の東軍が支配していたため、赤穂城は小豆島辺りににらみを利かすための軍港的城砦だったようです。築城から半世紀ほどの間に、デルタ地帯の広がりとともに町は水運によって栄え、1528年には、南の現在地に移転して戦国城下町として整備されていきました。

    江戸時代に入り、池田時代を経て浅野家初代・長直の頃、初めは甲州流兵学者の近藤正純によって設計され、後に山鹿素行が一部を手直ししました。素行は赤穂藩での8年間の務めを終えて江戸に帰りますが、幕府の御用学問である朱子学を批判したため流罪となり、1666年から許されるまで9年間も赤穂藩お預けとなりました。赤穂城は当初、5層の天守閣も計画されましたが造営されず、今は天守台だけ残っています。

    また千種川から引いた上水道が敷設され、城下の家々にも給水されていたことから「日本三大上水道」に数えられています。明治に入ると城内の建物が破却され、石垣と堀だけになっていましたが、昭和27年に赤穂城跡公園の都市計画決定から櫓をはじめ門や塀、庭園の整備が徐々に進みまして、現在も二の丸庭園の再建工事中です。平成18年から赤穂青年会議所が義士祭の12月14日までの数日間、建設用足場を組んで「イルミネーション天守」を造っておりまして、平成21年以降は5層となっています。