森家の系譜(下)
2019年8月6日(火) 放送 / 2019年8月11日(日) 再放送
「森家の系譜」の2回目です。赤穂藩で最も長く藩主を務めた森家について、岡山県の津山藩から説き起こし、本家がお家断絶寸前に免れ、井原市の西江原藩を経て赤穂藩に着任する一方、津山3代藩主・長武の弟・長俊が分家として津山新田藩を立藩後、津山本藩解体に伴い、三日月藩に移ってきた流れをお話しました。
結局、津山・森家は、いずれも播磨の赤穂藩2万石と三日月藩1万5000石の藩主として生きていきますが、もう一つの分家、津山時代に宮川藩1万8700石を領した津山藩の重臣・関家も同じ石高で、岡山県新見市にある新見藩に移りまして、3家とも廃藩置県まで続いたことを押さえておきたいと思います。
ここからは1697年、津山藩解体の翌年、津山新田藩から移ってきた森長俊が建てた三日月陣屋とその町並みを見ていきましょう。三日月藩は、播磨の佐用・揖西・宍粟の3郡内の65カ村1万5000石を支配しまして、着任早々、乃井野村に陣屋と武家屋敷の建設に着手、2年後の1700年にはほぼ完成させました。
以後、三日月藩の森家は続き、1759年には、広島藩浅野家から養子に入った5代目の快温が私財を投じて藩校「広業館」を開き、学問を奨励しましたし、幕末になると領内の三方里山に軍事教練のための「演武場」を設けるなど、小規模藩ながらも新時代に対応する懸命な姿が目に浮かびます。演武場は現在、三方里山公園となっています。
三日月藩9代目の俊滋の時、維新を迎え、戊辰戦争では新政府軍に従って参戦し、とりわけ、東北戦線では、播磨の明石と小野の藩兵らとともに5カ月近く、榎本武揚が率いる旧幕府反乱軍と戦いました。その三日月藩兵らが戦った相手が、同じ播磨で、しかも千種川流域にある上郡出身の大鳥圭介の地上部隊だったのは何とも皮肉でした。
明治に入ると、三日月陣屋は解体されましたが、その頃の通例で、部材などが移築の上、活用されています。例えば、物見櫓と長屋は小学校や公民館建設の際に再利用された後、2003年、再びかつて陣屋があった位置に戻され「三日月藩乃井野陣屋館」として整備されています。また陣屋の表門は、たつの市新宮町鍛冶屋の西法寺に移築されています。
ここ佐用町乃井野は「武家屋敷と本陣のある町」と触れ込むだけあって、藩邸跡や石垣、内堀などの発掘調査に基づいての町づくりは、全国的にも藩陣屋がほとんど残っていない中、列祖神社の前に移された藩校「広業館」と併せ、敬意に値しますね。