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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年9月1日(日) 08時30分

    三日月藩領・上月

    2019年8月27日(火) 放送 / 2019年9月1日(日) 再放送

    三日月藩領だった上月から見た戦国末期と、幕末における対決の構図のお話です。まず、上月出身の幕末の志士・立石孫一郎について、簡単に復習しておきましょう。幕末の上月は、佐用町乃井野に陣屋があった三日月藩が支配していまして、播磨の佐用・揖西・宍粟の3郡内65カ村1万5000石の一部でした。

    孫一郎は、大谷五右衛門喜道(よしみち)の長男として生まれましたが、藩の役人と口論して母の実家である岡山県津山の二宮村にあった立石家に寄食します。後に倉敷の庄屋・大橋平右衛門の養子となり、倉敷で暮らします。33歳となった孫一郎は、志士として長州に向かい、南奇兵隊に入ります。第二奇兵隊と改称された頃、幹部に昇進していた孫一郎は1866年、隊員のほとんどを率いて脱走しまして、幕府の倉敷代官所と、岡山県総社市の浅尾藩陣屋を襲撃しました。この「倉敷浅尾騒動」を起こした隊士の助命嘆願を工作していたさなか、孫一郎は潜伏先の山口県光市の千歳橋で殺され、脱走兵らの多くが処刑されました。

    孫一郎らの歴史的意義は、襲撃された浅尾藩が直後に、幕府寄りから新政府側へとかじを切った事実に見いだせます。世の変化に気付き、新時代に乗り遅れずに済んだからです。幕府の代官所跡は1889年に倉敷紡績が創業しまして、1973年に倉敷アイビースクエアとなり、現在はホテルを中心とした観光施設となっています。

    さて、三日月藩の領地だった「上月」から歴史を眺めてみましょう。戦国末期には、西の「毛利軍」対、東の「信長・秀吉軍」が上月城を巡って攻防を繰り広げまして、天下分け目の関ケ原の戦いでは、東軍の徳川に西軍の毛利が敗れた結果、外様大名の毛利は江戸時代を通じて、本州西端の長州37万石に押し込められていました。

    しかし、幕末になると今度は毛利が徳川に戦いを挑みます。最終的には、鳥羽伏見の戦いに始まり、箱館五稜郭の戦いで旧幕府反乱軍を降伏に追い込む「戊辰戦争」により、薩摩の島津と組んだ長州の毛利が勝利します。立石孫一郎という志士は、第二奇兵隊からの脱走兵を指揮する変則的な形で、一足早く徳川幕府に挑戦したのでした。

    孫一郎が生まれた上月は千種川の上流に当たりますが、同じ千種川の下流域には、孫一郎とは逆の幕府側についた大物を輩出しています。上郡出身の大鳥圭介です。大鳥は上郡が、尼崎藩の飛び地となっていた頃、医者の家に生まれ、旗本となり、兵学者として幕府軍の近代化に努めます。残念ながら、榎本武揚らの同志とともに五稜郭の戦いで降伏しますが、後に許され、敵だった明治政府に仕える大鳥については次回、詳しく触れます。