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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年9月22日(日) 08時30分

    苔縄城(下)

    2019年9月17日(火) 放送 / 2019年9月22日(日) 再放送

    上郡町にある苔縄城の2回目です。上郡町赤松の地は、赤松氏を名乗り始めた家範が定住した本拠でした。この白旗城こそ、一族を象徴する山城なのですが、時代がずっと下った近世の平城のように、大きな城がシンボルとなる時代ではありません。幾つかの枝城と連携して、敵に対処していました。白旗城も中世山城の典型として約3キロ西の苔縄城やその南の駒山城、さらには相生市矢野町の感状山城ともネットワークを組んでいました。

    このうち苔縄城は、智頭急行苔縄駅から北西へ約900メートルにそびえる海抜411メートル、愛宕山の東の峰にあったと伝えられるのですが、人工的に構築された明瞭な城郭遺構は残っていません。愛宕山へは現在、廃校となっている旧赤松小学校の裏から入る山道があります。道は途中で谷筋の道と尾根道に分かれますが、谷筋をたどる方が近道で傾斜もそれほど急ではありません。やがて「苔縄ふれあいの森」に入り、展望台から奥へ登山道をたどると、苔縄城の伝承地に着きます。

    山頂に、これという遺構は見当たらないのですが、何も無いわけではありません。横8メートル、縦22メートルほどの削平地がわずかに残っています。この平地は1メートルばかり高くなった段の上にありまして、歴史に名を残した割には存在感が薄い構造ですので、「城」というより「砦」と見た方がいいかもしれません。城の痕跡が乏しいのは、ごく短期間しか使われなかったためでしょうか。

    『太平記』などには、1333年、赤松円心が、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った三男の則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まるよう伝えた」と言われます。この赤松城とは、白旗城ではなく苔縄城かと思われます。しかし、趣がかなり異なる記述も散見され、事実を特定するのは困難ですね。

    例えば『播磨鑑』には「円心の三男・則祐が大塔宮の令旨を受けて、苔縄に城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏だった」としています。また別の説として「城主は伊豆守の祖・妙善入道」とも、あるいは「一説」として、「則祐は感状山に居住の後、この城を築いて住んだ」、さらに「子息の義房が譲り受けて居住した」などと、さまざまに記されています。見慣れない「妙善入道」や赤松則祐の息子・義房がどんな人物なのかもよく分かりません。

    苔縄城の初代城主は、やはり円心で、山麓に建てた禅寺・法雲寺を「居館」としつつ、愛宕山頂の「砦」を防衛拠点としていたと考えるのが自然かもしれません。