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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年9月29日(日) 08時30分

    法雲寺(上)

    2019年9月24日(火) 放送 / 2019年9月29日(日) 再放送

    赤松円心が建てた禅寺・法雲寺と開山に当たった雪村友梅のお話です。上郡町赤松で初代赤松氏を名乗った家範の曽孫に当たる赤松円心は播磨国守護となり、1337年、上郡町苔縄に菩提寺として建立したのが、臨済宗の法雲寺です。多くの名僧によって「五山」に次ぐ「十刹」という高い格式に列しました。この時代、度重なる戦乱で相次いだ犠牲者を供養するため、室町幕府の命により、旧国ごとに利生(りしょう)塔が建立されましたが、播磨ではこの法雲寺が選ばれ、今でも本堂南西の高台に塔の跡が残っています。

    住職を務めた多くの名僧の中でも、やはり開山した雪村友梅の波乱万丈の人生が群を抜きます。雪村は鎌倉時代末、越後に生まれ、鎌倉に出て帰化僧から中国・唐の様子を教えられた後、比叡山を経て京都・建仁寺に入門しました。

    18歳の時、中国の元へ渡ったのはいいのですが、国際関係の悪化に伴い、日本の留学僧はスパイと見なされました。雪村も危うく処刑されかけましたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えると、圧倒された処刑官が死罪を延期したため、処刑を免れました。雪村は、長安から四川の成都へと流される間、さまざまな経書や史書を学びました。

    大赦によって許されると逆に評価され、長安の住職となった上、元の朝廷から「宝覚真空禅師」の号を賜りました。39歳で九州の博多に帰ってからは、鎌倉から信濃へと赴き、請われて徳雲寺の開山となります。さらには京都・嵯峨の西禅寺住職となったり、豊後の大友氏に招かれて現大分市内の万寿寺に転じたりしつつ、再び京へ上り栂尾に隠棲しました。

    帰国後、引く手あまたの中、47歳でやって来たのが播磨・上郡の法雲寺でした。開山に当たり、紅葉に映える千種川の清流を、かつて幽閉されていた中国・成都の錦江になぞらえ、山号を金華山としました。雪村の名声を聞き付けた足利尊氏・直義の兄弟は、京都の万寿寺に招請しましたが、雪村は病気を理由に固辞します。ここで説得役に登場したのが赤松円心です。雪村は円心の願いに折れ、ついに1年の約束で京の万寿寺に行きました。病が重くなり、有馬温泉で療養しましたが、もう余命が2年もない中、朝廷によって建仁寺の住持を命じられ、就任したものの翌年末、亡くなりました。57歳、波乱の生涯でした。

    上郡の法雲寺は、いったん衰えましたが、何度も再興され、「円心お手植え」とされるヒノキ科の針葉樹「ビャクシン」や円心堂などが残ります。このビャクシンは何と樹齢約700年と推定されまして、高さが33メートル余り、最長の幹回りは10メートル近くもある、日本最大級を誇る県の天然記念物となっています。