法雲寺(下)
2019年10月1日(火) 放送 / 2019年10月6日(日) 再放送
上郡町苔縄にある赤松氏の菩提寺・法雲寺の2回目です。この禅寺は、南北朝時代の1337年に、赤松円心が雪村友梅という名僧を招いて創建しましたが、赤松氏の菩提寺のため一族の盛衰に合わせるように翻弄されます。しかし、何度も再興され、円心お手植えと伝える、県の天然記念物のビャクシンや円心堂などが残ります。
お寺が命脈を保てた背景には、復興に立ち上がった赤松氏の末裔たちがいました。江戸中期の18世紀初め、京都相国寺の天啓和尚が法雲寺の荒廃を嘆きまして、同じく末裔に当たる福岡県の久留米藩主・有馬則維の援助を受けて境内に円心堂を建てました。
久留米藩主の有馬家とは、赤松一族のどんな系統でしょうか。円心の三男・則祐の五男・義祐、つまり円心の孫の1人が、摂津国有馬郡の地頭に任命されたのを機に、その地に移り有馬氏を名乗ったのが「摂津有馬氏」の始まりです。戦国末期に有馬氏の嫡流は三好長慶の傘下に入り、荒木村重と対立して断絶してしまいます。しかし庶流の有馬重則が、播磨の美嚢郡に進出して、同じ赤松系の三木の別所氏らと反目しながら生き抜きます。
有馬重則の息子・則頼は秀吉に従い、その子・豊氏は神奈川県の横須賀3万石を治めます。関ケ原の戦いで有馬父子は東軍に属し、戦功により父・則頼は一族の旧領である有馬郡の三田藩2万石、息子の豊氏は京都丹波の福知山藩6万石を拝領します。豊氏は後に父の遺領をもらい8万石となりました。さらに「大坂の陣」でも徳川方として活躍したため、1620年には21万石に及ぶ久留米藩主となり、明治維新まで続きました。
摂津有馬氏の初代・重則から数えて8代目・有馬則維の援助で建てられた法雲寺の円心堂には、赤松円心と有馬則維の木像が置かれ、堂の脇には円心・則祐・満祐と、則祐の娘・千種姫の供養塔が並び、堂正面には「忠臣塚」が江戸後期の1843年に建てられました。
この法雲寺は、円心が建てた1337年から120年近く後、また戦乱の後始末の舞台となります。赤穂市南部の海辺に坂越浦城と茶臼山城がありましたね。1441年、嘉吉の乱を起こした播磨国守護・赤松満祐を滅亡させた山名宗全が、乱の後、赤松氏残党の逆襲に備えて建てたのが茶臼山城でした。宗全の予感通り、乱から14年後の1455年、赤松満祐の子・教康と、満祐の弟・祐尚の子・則尚らが、親の敵を討って赤松氏を再興しようと、茶臼山城にいる山名氏を攻めましたが、あえなく敗れました。
赤松教康は伊勢国で、また則尚は岡山県備前市の鹿久居島で、共に自害しましたが、赤松則尚の首実検が行われたのが、円心が建てた法雲寺でした。