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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年10月27日(日) 08時30分

    大聖寺山城(下)

    2019年10月22日(火) 放送 / 2019年10月27日(日) 再放送

    上郡町船坂にある大聖寺山城の2回目です。大聖寺山城を巡っては、「築城者と初代城主が誰なのか悩ましい」と前回申しましたが、『播備作城記』は円心の次男・貞範の孫・赤松満貞としているのに対して、『播磨鑑』では、満貞ではなく、その息子が「安室五郎義長」を名乗り、大聖寺山城の城主となったとして、1代の違いがありました。

    説の違いはまだあります。上郡町山野里の禅寺・西方(さいほう)寺の梵鐘銘には「西方寺は昔、大聖寺城主の菩提所で、藤九郎森長の石塔がある」として「城主は三浦駒王丸」なる聞き慣れない名前が見えます。また『赤穂郡誌』は1580年、赤穂郡が宇喜多氏の所領となり、安室郷の知行を安室殿に命じたことが「播磨国知行割覚」から分かるとしています。この大聖寺山城南方の土井ノ内が発掘調査された際、約9メートル四方ある平地の城館跡が確認されており、城主だった安室氏のものと考えられています。

    さて以前、駒山城を取り上げた際、詳しく触れられなかった所を少し深掘りしておきましょう。1546年に、安室五郎義長の家臣の代わりに「長船(おさふね)越中守」と称する武将が駒山城主となったという記録があると言いましたが、長船越中守とは何者でしょうか。長船という所は、岡山県瀬戸内市にありまして、古くから刀鍛冶で知られ、「長船刀」の誉は全国にとどろきました。

    距離的に西播磨の上郡から備前の長船までは約25キロと比較的近いため、現代以上に深い関係がありました。例えば、伊賀氏という武将が岡山市北区の、「虎の倉」と書く虎倉(こくら)城から退去した際に、黒田官兵衛と蜂須賀小六が城の接収を担当し、その後に約1万で入ったのが、宇喜多氏の家老だった長船越中守詮光(あきみつ)でした。長船越中は最終的に3万7000石となりますが、宇喜多直家の息子・秀家が、まだ幼かったため岡山城にいて、虎倉城には在番として妹婿を配置していたと言います。1588年になると、長船一族のお家騒動によって長船越中は亡くなり、虎倉城も焼失したようです。このように西播磨の山城も備前と関係が深かったことが分かります。

    長船越中が駒山城主となった31年後の1577年には、小田・吉田・内海・片島の4氏が駒山城を攻撃しますが、攻めあぐんでいたところ、高見治部なる武将が火を放って落城させた話は先に紹介しました。この頃の駒山城は、宇喜多直家が毛利方から信長方に寝返る2年ほど前ですので、宇喜多氏の家臣が城主を務めていて、これを攻め立てた4氏は信長の家臣・秀吉方だったと思われます。