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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年12月15日(日) 08時30分

    岡豊前守(下)

    2019年12月10日(火) 放送 / 2019年12月15日(日) 再放送

    相生市若狭野町にある下土井城の3回目です。1267年に初代・岡豊前守が築いて以来、海抜130メートルほどしかないのに、第12代・岡光顕が今の相生市若狭野町八洞(はっとう)にある兵庫西農協若狭野支店付近に移るまで約320年も機能していた珍しい山城です。

    城主の岡氏は、下土井城以外にも名が見えますが、年代に揺れがあるため厄介です。今の赤穂城のルーツとなった加里屋古城を築いたのが、赤松満祐の一族、岡豊前守光景で、時に15世紀半ばの享徳年間(1452~55)と『播州赤穂郡志』にあります。一方で、同じ書物から引いた『赤穂市史』では、年代が最大30年ほど下った文正(ぶんしょう)元年~文明15年(1466~83)の築城で、同じ岡豊前守ながら名が光景ではなく、光広としています。

    いずれにしても岡氏が赤穂城につながる城の築城に関わっていた事実を知れば、旧赤穂郡の豪族として伝統と地位の高さを感じます。岡氏の城はまだあります。築城時期は不明ですが、赤穂市東有年の鍋子城で、大鷹山城あるいは谷口城や中山城とも呼ばれます。

    もう一つは、本拠地の下土井城から北東へ30キロ余り離れた宍粟市一宮町東市場と須行名(すぎょうみょう)の間にある、名もずばり岡城があります。元は1392年、赤松円心の玄孫に当たる赤松教弘が築城したのですが、半世紀近く後に起きた嘉吉の乱で落城後、同じ場所に復興させたのが岡豊前守吉政で、時に16世紀半ばの天文年間(1532~55)と言います。

    一宮町の岡城は、安積城・岡山城・宮山城とも言いますが、相生の下土井城と同じく、城主の名から岡城となりました。しかし岡氏の再興から半世紀にもならない1580年、秀吉の播磨攻めで、宍粟市山崎町の長水城が落ちた際、岡城も運命を共にしました。

    宇喜多氏に仕えていた岡氏は家利の頃、宇喜多直家の三家老の1人となります。岡家利は利勝とも呼ばれてややこしいのですが、1573年には信頼の厚い直家から岡山城の築城を任されました。その9年後、秀吉にくみして直家の異母弟・宇喜多忠家とともに宇喜多軍を率いて岡山市北区の備中高松城に出陣しました。明智光秀の本能寺の変を知って、世に言う「中国大返し」で急ぎ京に駆け付けたのは言うまでもありません。

    1582年に直家の没後、岡家利は、まだ10歳だった宇喜多秀家の補佐を任されましたし、6年後、宇喜多氏の政務を仕切っていた長船貞親が亡くなると、後を受けるほどの重鎮で武勇にも優れていましたが、1592年、文禄の役で朝鮮に出征中、病没しました。豊前守から越前守に改めた息子の岡貞綱は、宇喜多秀家と対立して徳川側に寝返りましたが、大坂の陣で内通を疑われ、切腹しました。