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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年12月8日(日) 08時30分

    岡豊前守(上)

    2019年12月3日(火) 放送 / 2019年12月8日(日) 再放送

    相生市若狭野町下土井にある下土井城の続きです。天然の堀となる矢野川、小河(おうご)川に挟まれた丘陵地という、山城にはもってこいの地形を利用した下土井城は、海抜が130メートルほどしかないため、400メートルを超える上郡町赤松の白旗城(440メートル)や宍粟市波賀町の波賀城(458メートル)などと比べると、少し見劣りがします。

    しかし、一度も戦場にならなかったせいか、コンパクトな縄張りながら二重・三重の堀切や畝状の竪堀、土塁などがしっかり残っていて、U字形の堀切を含め、全て岩盤を切り開いて造られているのが特徴です。南西に延びた尾根の背後を三重の堀切で遮断し、先端を城の領域として、尾根上の曲輪の周りを一段下がった犬走りが取り巻いています。

    この下土井城の城主は岡豊前守(ぶぜんのかみ)とされ、「光国」の実名も上がっていますが、岡氏とは、どんな武家なのでしょうか。一部報告書に見える「豊後守」は誤りですのでご注意ください。『岡城記』などの記録が残されている割には、実像がはっきりしません。岡氏の初代・豊前守が下土井城を築城したのが、伝承通り、鎌倉時代前期の1267年で、既に赤松氏の家来だったとすれば、円心の父・茂則か祖父・久範の頃となります。

    時代が下り円心の時代に赤松氏も繁栄しますが、家来の浦上氏、その下の宇喜多氏も世が下剋上へと向かうと、主君の赤松家を脅かす存在となっていきます。下土井城主だった岡氏は、相生市矢野町かいわいを支配する赤松系の在地領主でしたが、やがて浦上氏に従い、次いで宇喜多氏へと鞍替えしたようで、いつしか宇喜多氏一統で重きをなすまでに出世します。

    その事実は、当時の岡氏の知行高が宇喜多家中で2番目の4万2500石余りだったとする古文書から明らかです。つまり、矢野荘の在地領主だった代々の岡豊前守は、浦上氏や宇喜多氏の家来として相応の知行を与えられ、特に宇喜多氏に仕えていた時期に重臣へと成長していったことが分かります。

    1571年より少し前までは浦上氏の支配が矢野荘に及んでいたものの、同年には、宇喜多直家が浦上氏から支配権を奪いました。ところが、宇喜多氏の支配も長くは続かず、西播磨一帯が、西の毛利方と東の織田方の二大勢力が、つばぜり合いを演じる戦場と化しました。

    結局1579年から織田方が西播磨一帯を支配した際、矢野荘辺りの防備を固めるため、数年後には、在地で力を持つ岡氏を織田方に取り込んだようです。下土井城に戦いの跡がないのは、岡氏が“無血開城”に応じた証拠かもしれません。