高野須城
2020年1月21日(火) 放送 / 2020年1月26日(日) 再放送
赤穂市有年横尾にある高野須城です。前回取り上げた同じ有年横尾にある鴾ケ堂城から東へ1.5キロほど、相生市との境界にある海抜316メートルの荒山の頂上付近にあります。城の表記は、高野山の「高野」に須磨の「須」ですが、この辺りは鳥の「鷹」を付けた城が複数ありました。赤穂市東有年の鍋子城とその北にある八幡山城は、共に大鷹山城の別名がありましたし、鴾ケ堂城は小鷹山城とも呼ばれるので、こちらの高野須城も、鳥の鷹のすみかである「鷹の巣」から来ているのかもしれません。
前回の鴾ケ堂城については、戦国時代の戦の様子が『播州赤穂郡志』に記されていて、なじみの薄い武将の名が出てきましたが、サッと流しましたので、少し検証しておきましょう。鴾ケ堂城の築城者・太田弾正を戦国武将とした上で、息子の治内が城主だった頃、龍野の龍野刑部なる者と組んだ小河秀春に夜襲を掛けられたものの、東有年に住む三宅与左衛門という者に助けられ、龍野刑部も小河秀春も討ち死にしたという話でした。
鴾ケ堂城を造った太田弾正は、赤松氏初代の家範の父・則景だとする、少々無理がある説がある一方、先の城を巡る戦の話は、400年近く後の戦国時代に位置付ける、こちらも大胆な説で、真偽のほどは分かりません。では、鴾ケ堂城を夜襲した小河秀春とは何者でしょうか。千種川の支流・小河川の地名を名乗ったとすれば、地元の豪族に違いありません。
一説にある「赤松秀光の三男」から手繰り寄せると、赤松系図に無いわけではありません。嘉吉の乱を起こした赤松満祐の弟・則繁の玄孫に秀光がおり、その嫡男と思われる秀時が跡を継いでいますので、秀時の弟・秀春が地元名士・小河家の養子になったと推測できます。秀の字が共通で、世代的にも大きな矛盾はありません。ただ、秀春と組んだ龍野刑部も、鴾ケ堂城を落城から救った三宅与左衛門については見当がつきません。
さて高野須城です。16世紀後半の天正年間(1573~92)、高島右馬介正澄の築城とされます。初登場の高島正澄とは、赤松政範、この政範は、まつりごとの「政」に模範の「範」と書く人物の叔父に当たります。佐用町の上月城の際にも触れましたが、発音が同じ「まさのり」で、紛らわしいですね。
「嘉吉の乱」で逼塞した赤松家を再興した後期赤松氏の初代・赤松政則の曽孫です。つまり、復活の立役者・赤松政則の養子・義村の息子・赤松政元の息子が、“もう一人の政範”でした。ということは、高野須城主の高島正澄は、赤松義村の三男で政元の弟でもありましたが、甥の赤松政範が城主を務める上月城で共に立てこもり、1577年、秀吉による「第一次上月城の戦い」で戦死しました。