石蜘蛛城
2020年1月28日(火) 放送 / 2020年2月2日(日) 再放送
太子町の立岡山にある石蜘蛛城です。播州平野の西の端に近い太子町のほぼ中央に、こんもりと立つこの山は、周りに遮るものが無いため、海抜100メートル余りに過ぎない割には素晴らしい眺望が開けています。この地に山城が築城される時代より随分昔の話が『播磨国風土記』に記されています。仲哀天皇と神功皇后の息子・応神天皇が山に登り、四方の地を眺めて国見をしたとされる「御立の阜」が、この立岡山だと言います。
時代が下り、立岡山にある石蜘蛛城は、源頼朝が鎌倉幕府を樹立して1世紀近くたった頃、1279年、越前島津氏の2代目、従五位下島津忠行が今のたつの市南部の下揖保荘と布施郷の地頭職となったのを機に築城したと伝えられます。島津氏が地頭となった下揖保荘は、今のたつの市揖保町から揖保川町東部にかけての地域で、布施郷はたつの市揖西町南西部辺りのことです。
以後、1534年、島津左近将監忠長まで14代、250年以上にわたって、代々島津氏が石蜘蛛城主を務めました。島津氏と言えば、幕末・維新期の活躍から薩摩藩のイメージが強く、越前や播磨との結びつきは、あまり知られていませんので、次回、播磨島津氏について掘り下げたいと思います。
さて播磨島津氏が入った石蜘蛛城も、鎌倉幕府の倒幕から、後醍醐天皇による建武の新政を経て、足利尊氏の室町幕府樹立、さらに南北朝の争乱と戦乱に翻弄されます。島津忠行による築城から56年後の1335年、後醍醐天皇方の新田義貞勢が京都から播磨に攻め下り、立岡山の北麓辺りに本陣を置いたとされます。
戦の最中、立岡山から500メートルほど北にある斑鳩寺の僧たちが義貞の戦勝祈願をしたとされます。義貞は公家の大納言・四条隆資にこの様子を報告し、「恩賞あるように」と書き添えた事実が、斑鳩寺に伝わる「新田義貞書状写」からうかがえます。
新田義貞軍と対峙していた赤松円心軍は、いったん兵を引き、上郡町赤松の本拠地・白旗城へ引き上げていき、相生市矢野町森の感状山城などの枝城と連携し、篭城作戦を取りました。白旗城と感状山城については、既に述べた通り、軍勢の大きさからすると義貞軍が圧倒していましたが、結局攻め切れず、いったん九州に引き下がっていた足利尊氏が巻き返すのに十分な時間稼ぎに成功し、白旗城は後々「落ちない城」と語り継がれていきます。