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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年2月9日(日) 08時30分

    播磨島津氏

    2020年2月4日(火) 放送 / 2020年2月9日(日) 再放送

    太子町の立岡山に石蜘蛛城を築いた播磨島津氏について掘り下げます。島津氏は薩摩武士として有名ですが、実は薩摩以外にも根を張っていました。元は、日向・大隅・薩摩の3国にまたがる「島津荘」と呼ばれる大荘園の地頭職に任じられた惟宗(これむね)忠久が後に初代島津氏を名乗ります。時に1186年、源頼朝が守護・地頭を掌握し、鎌倉幕府の体制を整えた頃です。

    島津忠久は3国の守護職となり、1221年、信濃国太田荘地頭職も与えられ、同年に起こった承久の乱での軍功により、越前国守護職にも就きました。1227年、鎌倉で没後、嫡男の忠時が継ぎ、次男の忠綱は越前守護代に就任し、越前島津氏の祖となりました。その忠綱の子・忠行が、母から播磨国下揖保荘を譲り受け、1279年、太子町の立岡山に石蜘蛛城を築城し、播磨島津氏として勢力を増していきます。

    鎌倉時代末期になると、幕府の衰退と反比例して、経済発展とともに財を成した在地領主が台頭し、幕府に従わなくなりました。幕府は、そんな反抗勢力を悪党と呼び、播磨では相生の矢野荘を拠点とする寺田法念が有名です。

    寺田一族を中心とした悪党の中に播磨島津氏5代目・忠藤の名もあります。幕府の弱体化に付け込み、討幕を企てて失敗し、隠岐の島に流されていた後醍醐天皇を呼び戻したのは、神戸の湊川神社に祭られる楠木正成や赤松円心ら、悪党と呼ばれる武士たちでした。

    この討幕軍の中に島津忠藤の子・忠兼もおり、幕府軍とよく戦ったとして、父・忠藤に下揖保荘の地頭職が安堵されました。しかし、天皇による「建武の新政」に失望した武士たちは、足利尊氏の反旗に呼応して、南北朝の動乱へと進みます。島津忠兼は尊氏方に付き、赤松円心とともに白旗城で新田義貞軍の包囲に耐えます。さらに赤松軍として各地を転戦し、新たに布施郷の地頭・公文・下司職を与えられました。

    嘉吉の乱後も島津氏は赤松氏と運命を共にし、復活後、再び赤松傘下に入り、11代・島津忠光は下揖保荘の代官職に戻りましたが、浦上氏との抗争が待っています。1534年、14代・島津忠長は赤松政則の養子・義村の子・晴政に味方して浦上氏と戦って討ち死にしました。20年後、忠長の子・忠之は赤松晴政から布施郷と下揖保荘の地頭職を与えられましたが、1569年、龍野城主・赤松政秀と御着城主・小寺政職(まさもと)が戦った「青山合戦」で没します。一説では、忠之の子・義弘は剃髪し帰農後、子孫は薩摩島津氏から一族と認められ、参勤交代の際、礼装で挨拶に出ていたと伝えられます。