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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年2月16日(日) 08時30分

    香山城

    2020年2月11日(火) 放送 / 2020年2月16日(日) 再放送

    たつの市新宮町香山にある香山城です。たつの市最北部に近く、北は宍粟市山崎町、東は姫路市安富町に接しています。そして揖保川の流れがすぐ東にあり、川に沿って但馬への街道が走っていますので、にらみを利かすのには持ってこいの立地です。

    ただ、山城としてはそれほど高くはありません。裏山は海抜370メートル以上ありますが、城が位置するのはせいぜい100数十メートルほどで、目印となる大歳神社を挟んで南北に分かれています。麓に南曲輪、中腹に北曲輪がありまして、北が山城として機能し、南は「備後屋敷」とも呼ばれるように、香山氏と家来の居館だったと思われますが、整地途中の所もあるため、拡張中に何らかの事情で中止されたのかもしれません。

    そんな未完成の香山城ですが、総石垣で築かれた多数の曲輪とともに竪堀や石塁などの遺構が随所にあり、広大な城域を形成しています。何より山裾を削平し、何段にもわたって高低差が付けられている様は、棚田のようで見事です。

    築城は1330年代の建武年間(1334~38)に、赤松円心の配下にあった香山秀清によるとされますが、異説もあります。まず『香山系図』によれば、但馬の古代豪族・日下部氏の一族・八木氏から出たとしています。現在の養父市八鹿町にあった八木城主の八木但馬守重秀の次男・秀信が1184年の源平「一の谷合戦」の時、赤松播磨守頼範に属して軍功があり、播磨・揖保郡香山荘の地頭職を得て、その子・秀忠も地頭を継承し、代々香山城主であった旨が記されています。

    今日伝わる諸系図には、全く時代が合わない人物が登場するケースが多く、時に面食らいます。八木秀信が一の谷合戦に参加したかどうかはともかく、生没年は不明ながら赤松頼範が生きていただろう時代とほぼ重なります。しかし、疑わしい所もあります。そもそも八木氏は、鎌倉時代前期の1221年、朝倉高清の子・安高(重清)が八木荘を与えられて以降、八木氏を名乗ったのが始まりです。

    この時点で源平合戦時から40年近く後です。加えて、合戦で軍功があったとする八木秀信の父・重秀は、八木氏初代から8代も後、鎌倉時代末期に生きた人物と思われます。香山城を築城したとされる八木秀信の兄、重秀の嫡男・頼秀以降の代々は、八木城主として山名氏に仕えました。

    ただ、八木城主の嫡男ではない次男が但馬から南に下り、播磨へ養子に入って香山秀信と名乗ったと考えられなくもありませんが、『香山系図』には150年ほどの時代的ずれがあるため信じるわけにはいきません。では、香山城は誰が建てたのかは、次回です。