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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年2月23日(日) 08時30分

    香山氏(上)

    2020年2月18日(火) 放送 / 2020年2月23日(日) 再放送

    たつの市新宮町香山にある香山城を築城した香山氏について考察します。香山城は一応、1330年代の建武年間(1334~38)に、赤松円心配下の香山秀清が築城したとした上で、異説として残る、但馬の養父市八鹿町にあった八木城主の八木但馬守重秀の次男・秀信の名を挙げました。しかし、150年ほども時代が異なるなどの矛盾から真実には遠いと思われます。

    では、香山城築城の本命と思われる香山秀清とは、どんな係累の人物でしょうか。前回紹介した『香山系図』に、秀清は香山氏初代・秀信の玄孫との関係で登場しますが、これも年代的に信じられません。残念ながら、秀清からさかのぼるルーツが知れる確かな資料はありませんし、先の系図には次のような怪しい話も記されています。

    初代香山秀信の曽孫の秀国が、現在の宮城県栗原市の栗原城主・二階堂兼藤の娘をめとった上、兼藤の息子・秀清を娘婿とし、香山氏を継がせたとしています。ということは、秀国には息子が無かったため、娘の婿に取った秀清に香山家の将来を託したと取れます。ところが、二階堂氏の系図には、なぜか秀清の名が見えませんので、この説も眉唾かもしれません。

    こうなると、香山氏のルーツ探求はあきらめ、秀清以降の流れを見るほかありません。香山秀清は備後守を名乗り、香山荘の地頭職を安堵されて赤松氏の傘下に入ったと思われます。そして、1330年代の建武年間(1334~38)に香山城を築いて統治したようです。しかし、秀清の孫・秀光の晩年になり、赤松満祐が「嘉吉の乱」を起こすと、配下である香山氏も赤松軍に加勢せざるを得ません。香山秀光は山陽道迎撃軍に属し、明石市の「和坂(かにがさか)の戦い」で討ち死にしたとされます。

    赤松軍の本隊は、たつの市新宮町の城山(きのやま)城で篭城の末、室町幕府軍に敗れますが、篭城した武将の中に香山氏の名が無い所からすると、このまま赤松氏に付いていてもらちが明かないと判断し、あえて城山城には入らなかったとも考えられます。

    赤松氏の逼塞後、山名氏が播磨守護となりましたが、香山秀光の子・秀氏は山名氏にはなびかず、しばらく独立を保ちました。やがて、赤松満祐の弟・義雅の孫・政則が大活躍します。後南朝に奪われていた「三種の神器」の一つ神璽(しんじ)「ヤサカニノマガタマ」を1458年、赤松政則が奪回するなどの大手柄により、赤松家が復活しました。

    加賀半国の守護を皮切りに、播磨守護職などに復職すると、待ちかねたように香山秀氏は赤松氏に属して香山城に入り、香山荘地頭職にも返り咲きました。室町幕府管領同士の山名氏と細川氏がぶつかり泥仕合を展開した応仁の乱勃発から4年後の1471年のことでした。