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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年3月1日(日) 08時30分

    香山氏(下)

    2020年2月25日(火) 放送 / 2020年3月1日(日) 再放送

    たつの市新宮町香山にある香山城を築城した香山氏の2回目です。赤松政則の活躍により、ようやく赤松氏の復興を遂げてしばらくすると、室町幕府管領同士の山名氏と細川氏がぶつかった泥仕合「応仁の乱」の始まりから4年後の1471年、香山秀氏は古巣の香山城に入り、香山荘地頭職にも返り咲きました。

    しかし、応仁の乱は10年余りも続き、京都を焼き尽くして終結しましたが、室町幕府の権威は地に落ち、世は下剋上の戦国時代となっていきます。1496年、赤松政則が没した後、円心の長男・範資の末裔に当たる義村を養子に迎えましたが、赤松氏復興に貢献した守護代の浦上氏が大きな力を付け、実際、義村を幽閉した上、殺害してしまいます。

    こんな「播磨錯乱」と呼ばれる乱世に、香山氏は秀氏の跡を継いだ秀詮(ひであき)が、香山荘を支配し、何とか勢力を維持していました。赤松義村が殺される7年前の1514年、浦上方の衣笠長門守を攻めた際、香山秀詮は300騎を率いて参戦し、衣笠氏を討ち破りました。

    しかし浦上氏の勢力は増すばかりで、西播磨から現在の岡山県域に当たる備前・美作までを領有しました。赤松義村の子・晴政は、何とか浦上氏の力を奪おうと機会をうがっていたところ、好機が訪れました。1529年、流浪の身となっていた幕府管領の細川高国が岡山県備前市の三石城に現れ、浦上村宗に助けを求めたのです。翌年、高国の要請を受けて村宗が摂津に出陣すると、村宗を討つ絶好機と見た赤松晴政は軍勢を整えて摂津に攻め上りました。

    このとき香山城主だった香山秀綱が出陣し、晴政の叔父で龍野城主の赤松村秀の軍に加勢しました。当時、香山氏は配下に17家を持ち、揖保郡北部から宍粟郡南部にかけて広範囲を支配していたとされます。1531年、香山秀綱は家督を秀義に譲りましたが、播磨の勢力図はさらに変化していきます。赤松本家は晴政から息子・義佑、そして孫の則房の代となると先細りし、対抗した浦上氏も衰えを見せ、西から宇喜多氏がのしてきます。

    混乱の中、本家ではない赤松系の諸氏が各地に割拠しました。東播磨の三木城・別所氏、播磨南部の御着城・小寺氏、播磨北部では宍粟市山崎町の長水城・宇野氏らでしたが、西から毛利氏、東からは信長・秀吉勢に挟まれながら、戦国末期の厳しい戦局にあえぐ中、香山秀義は長水城の宇野氏に属しました。

    そこへ羽柴秀吉の播磨攻めで、三木城や上月城が落ち、やがて長水城も落城しました。香山城は、長水城の前に攻撃され、城主の香山秀明らは何とか落ち延び、その子・秀国は帰農後に土着し、代々太郎右衛門を称して香山村の庄屋を務めたとされます。