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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年3月29日(日) 08時30分

    乙城

    2020年3月24日(火) 放送 / 2020年3月29日(日) 再放送

    たつの市揖西町と揖保川町養久(やく)にまたがる乙城です。かつては平井郷佐江村と呼ばれた所にある、この城の名前は、聞いただけではどんな漢字があてられているのか分かりません。甲乙丙…の2番目「乙」と書いて「おと」と読みます。揖保川下流域の西岸から西へ約1.5キロ、山陽自動車道のすぐ南にある養久(やま)の海抜100メートルほどの尾根上にあります。

    近辺の山城と同じく、播磨守護だった赤松円心が建武年間(1334~38)に計画したもので、高瀬小四郎景忠という武将に命じて築城したとされます。これまた、お決まりのように1441年、赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」で一時お家が断絶したため、この乙城もいったん廃城となり、「応仁の乱」の後、満祐の弟・義雅の孫に当たる赤松政則の奮闘による再興で復活しました。

    乙城が復活して100年ほどたった1560年、龍野赤松氏と対立していた、たつの市御津町室津の室山城主だった浦上政宗が乙城を攻略して一時、居城としました。しかし1578年、赤松政秀の次男・赤松広英(秀)は秀吉に追われて龍野城から乙城に移され、こちらの城主となり、後に徳島藩主となる蜂須賀小六が龍野城主として入ってきました。さらに1585年、赤松広英は現在「天空の城」として知られる但馬・竹田城へ移封され、乙城は廃城となりましたが、今わずかに曲輪・土塁・井戸などが残っています

    さて、乙城を築城した高瀬景忠なる人物は何者でしょうか。赤松系でほぼ間違いはないように思われますが、素性ははっきりしません。『播磨国風土記』の託賀(たか=多可)郡四里の一つに都麻(つま=津万)里があり、高瀬という村も含まれていたようで、この村から発祥した高瀬土佐守が、現在の西脇市上野に西脇城を築いて城主となったと言います。時代は漠然と「室町の頃」としか分かりません。

    この西脇城主にゆかりの高瀬景忠が赤松円心に仕え、乙城の築城を任されたと思われ、一説によると、こちらの高瀬氏は代々出雲守を称し、景忠から8代にわたって上郡町赤松の白旗城にいたと言います。しかし、秀吉の三木城攻めの際に同じ赤松一族の援軍として三木城に篭城の末、若き城主・別所長治らと運命を共にし、「干殺し」されたらしいのです。

    滅亡とはいえ一族郎党もろともに死に絶えたとは考えにくく、残党と呼ばれる落ち武者が播磨各地に根付き、特に発祥の地と思われる西脇市内には、かつて市長を務めた家を含め、多くの高瀬氏が住んでいます。