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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年3月22日(日) 08時30分

    曽我井城(下)

    2020年3月17日(火) 放送 / 2020年3月22日(日) 再放送

    たつの市新宮町曽我井にある曽我井城の2回目です。曽我井城については分からないことだらけなのですが、南北両朝に分裂したころ、元弘年間(1331~34)に赤松円心が築き、100年余り後の1441年、赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」の時、満祐の弟・義雅の家臣が守っていて落城したのは、ほぼ間違いありません。

    さらに一時、赤松氏が逼塞した後、赤松義雅の孫・政則がお家を再興し、姫路市夢前町に置塩城を築いて後期赤松氏の時代になると、政則の側室の子・村秀が龍野古城の城主となり、西の守りを固めます。赤松本家は、円心の長男・範資の末裔に当たる義村を政則の養子に迎えて態勢を固めたのですが、義村が浦上氏に殺害されてしまいます。

    義村の跡をわずか8歳で継いだ息子の晴政はピンチの連続です。尼子晴久が備前・美作2国の守護職になると、晴政の権益が無くなったばかりか、播磨の主権も浦上氏に奪われていました。そこで助け舟を出したのが、分家の龍野赤松氏で、時は初代・村秀から息子・政秀の代に移り、幸い政秀は晴政の娘婿になっていました。行き場を失った晴政は、政秀の龍野城に逃れました。

    赤松政秀は、台頭著しかった浦上氏を滅ぼすなど、戦国の世を巧みにすり抜けていきました。龍野古城の城主は政秀から長男・広貞、次男・広英(秀)へと交代し、嘉吉の乱から復活した曽我井城を守ったのが、三男の祐高(すけたか)でした。しかし天正年間(1573~92)に入ると、秀吉による播磨攻めで曽我井城など赤松系のほとんどの城が落城しました。

    赤松祐高は、元の名・広英から斎村政広と名を変えていた次兄と共に秀吉に従いました。幸いにも祐高は豊臣政権で一時、たつの市揖保川町の半田山・家鼻城1万石を与えられます。さらに1600年の関ケ原の戦いでは兄・斎村政広と共に石田三成の西軍にくみしますが、頃合いを見て徳川方に寝返ります。兄は、西軍の鳥取城を攻めたまでは良かったのですが、城下を焼き討ちして民家に放火したのをとがめられ、徳川家康から切腹を命じられました。

    一方の弟・赤松祐高は各地を流浪の後、「大坂の陣」で浪人衆として豊臣秀頼に仕え、大坂城で篭城します。1615年の「夏の陣」の後、城を脱出して故郷に近い姫路市網干区興浜(おきのはま)の大覚寺にこもりましたが、池田輝政の長男で、姫路藩2代目藩主となっていた池田利隆の兵に囲まれたため、仲間の兵を救うため切腹して果てました。

    赤松祐高の嫡男・祐則は半田山で帰農し、武士としての龍野赤松氏も断絶しました。ただ子孫は、たつの市揖保川町内で曽谷氏と名乗る名家として今も続きます。