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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年4月26日(日) 08時30分

    新旧龍野城

    2020年4月21日(火) 放送 / 2020年4月26日(日) 再放送

    たつの市揖西町平井にある平井城を語るに先立って、紛らわしい「新旧の龍野城」を整理しておきましょう。龍野城については2018年10月の放送で5回にわたってお話しましたが、そのまとめです。たつの市龍野町上霞城には、江戸時代初期に築城された「近世龍野城」と、それ以前の中世の城跡があります。

    古い方を「龍野古城」と呼びます。龍野城には別名が幾つかあり、鶏籠山城、台山城、朝霧城、それに「かすみ城」と書いて()城などです。霞城は地名にもなっておりまして、龍野城がある場所は上霞城と言います。たつの市街を見下ろす海抜218メートルの鶏籠山の山頂部と南の麓に位置する山城です。

    江戸時代に築かれた近世龍野城は、古城の南麓にあります。ご多分に漏れず、古城の築城年代や誰が築いたのかは定かではありませんが、1499年ごろ、赤松一統の宇野政秀が築いたとする説。また、赤松家を復興し、姫路市夢前町の置塩城を築いた赤松政則が1500年に、庶子の村秀に与えたとも言います。

    龍野古城の築城のいきさつは説が分かれますが、赤松政則の側室の息子・村秀が重要な役割を果たします。当初、村秀は庶子のため赤松本家を継がせてもらえず、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏へ養子に出されました。しかし、赤松氏の新たな拠点として龍野古城が築城されたため、村秀はこちらの初代城主となりました。その際、宇野から本来の赤松に姓を戻したようです。以来、龍野赤松氏は4代、約70年にわたり、逆に本家の置塩城主を助けながら勢力を張りました。

    龍野赤松氏は、村秀に始まり2代・政秀、3代・広貞を経て4代目の広英(秀)は、秀吉に降伏し、秀吉軍として四国攻めなどで活躍した結果、朝来市の「天空の城」竹田城主となります。その後の龍野古城は、徐々に中世山城から近世の平山城へと変わっていきます。

    龍野古城の縄張りは、近世龍野城の北にそびえる鶏籠山頂に本丸、南の尾根先に二ノ丸を配した連郭式になっています。本丸の周りに石垣が残り、北に八幡宮があって、そこに至る参道が本丸の東側を回っていて、参道の一部は「古城の石段」と呼ばれます。本丸から南へ曲輪が連なって二ノ丸へと至り、さらに南へも曲輪が続き、南端の帯曲輪には土塁が巡っています。そして近世龍野城からの大手道が通じています。

    赤松氏4代の支配が終わった龍野城は、江戸初期にかけて、目まぐるしく城主が交代します。その変転の最後となった京極氏は1658年、龍野から四国の丸亀に移るのですが、まさに「後は野となれ山となれ」そのままに、城下町を濁して去っていきました。