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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年5月3日(日) 08時30分

    平井城と醸造業

    2020年4月28日(火) 放送 / 2020年5月3日(日) 再放送

    たつの市揖西町平井にある平井城です。いわゆる龍野城は新旧に分かれ、龍野古城と近世龍野城があると前回、説明しましたが、実は龍野古城より古い城がありました。今回取り上げる平井(位)城です。揖西平野を見下ろす、海抜350メートルとかなり高い所に位置しています。

    海抜394メートルの的場山(まとばさん)から南西に延びる尾根上に1495年、赤松政秀が京都・東寺の領地、現在の相生市に当たる矢野荘から人夫800人を動員して築城し、その4年後、平井氏に守らせたと伝わります。曲輪や土塁などが確認でき、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸などの地名も城跡の証しでしょう。城の南には山岳寺院の大道寺跡があります。

    地名と同じ平井姓は、たつの市揖西町小神(おがみ)付近の旧平井郷から発祥したとされまして、鎌倉時代には、井戸の「井」に代わって「位」と書く「平位」の表記で記録に残ります。そんなゆかりのある平井城は、龍野古城が鶏籠山城に築かれる前にあった、いわば“元祖龍野城”とも言える存在です。この平井城から鶏籠山頂を経て、さらに南麓に近世龍野城が築城されたと考えられています。

    平井城の終末期に城主を務めたのは平井備中守貞利でした。龍野赤松氏4代目城主の広英に仕えましたが、主家の移封に従って但馬の竹田に移りました。しかし、関ケ原合戦の後、赤松広英が鳥取城下を焼き尽くす過剰な対応が徳川家康の逆鱗に触れ、広英が自害に追い込まれたため、平井貞利は古里の龍野へ戻りました。

    龍野赤松家の家臣の中には、武士を捨て、今日、地場産業として栄える醸造業を営んだ者が結構いました。円尾孫右衛門をはじめ横山五郎兵衛宗信、片岡治兵衛らですが、中でも円尾は1666年に「淡口醤油」を開発しました。関西に薄味の食文化の隆盛をもたらし、今や世界的な和食ブームを沸き起こした原動力となったのは特筆に値します。また片岡が興した「幾久屋」は合併や再編を経て、今のヒガシマル醤油につながっている事実は驚きです。

    平井貞利もまた醸造業を開業し「石橋屋」ののれんを掲げます。武士から醸造業者という商人に転身したとはいえ、家康に切腹を命じられ、お家断絶となった大名家の元家臣の過去は、変えようがありません。役人が頻繁に石橋屋を訪れては、赤松家の動向をあれこれと詮索したと言います。

    それでも平井貞利は、ただ一言「赤松のことは存ぜず」としか答えなかったとされ、やがて「存ぜず」の漢語「不存」と名乗るようになり、同じ発音の普通の「普」と尊敬の「尊」を合わせた「普尊」を自らの戒名にしました。