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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年5月17日(日) 08時30分

    梶山城と肥塚氏(下)

    2020年5月12日(火) 放送 / 2020年5月17日(日) 再放送

    たつの市揖保川町市場にある梶山城と肥塚氏の2回目です。前回、梶山城主を数代にわたって務めた肥塚氏についてお話しましたが、少し補足をしておきます。まず、肥塚氏の出自が一体、どこなのかについてです。現在、たつの市御津町や姫路市内に分布する名前ですが、発祥はどうも播磨ではなく、関東地方の武蔵国大里郡の地名・肥塚(こいづか)を名乗ったのが始まりと思われます。

    現在の埼玉県熊谷(くまがや)市内にあり、地元では「こいづか」と発音します。肥塚氏がこの地で発祥した証しに、熊谷市肥塚1丁目にある成就院というお寺の境外墓地の北側に板碑が2基残っていて、どちらも肥塚家の墓と伝えます。そのうち地蔵菩薩の梵字を刻んだ板碑は、南北朝時代の応安8年(1375)の年代銘が記されています。

    平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に勢力を伸ばしていた同族的武士団「武蔵七党」の一つ(たん)党に属したとされます。その肥塚氏が播磨にやって来たいきさつはよく分かりませんが、鎌倉時代に居を移し、赤松氏の配下に入ったと思われます。

    梶山城を築城した赤松教弘が生前、1.5キロほど西の伝台山(つだいさん)城に移った後、肥塚頼房が梶山城に入り、肥塚氏が数代にわたり根城としたと述べました。その後の肥塚氏について詳しく見ていきましょう。1441年の嘉吉の乱で、赤松一族がたつの市新宮町馬立の城山城に立てこもって滅亡した際、教弘の子・教久が18歳で自害したほか、肥塚頼房の子・頼清も戦死し、梶山城も落城しました。

    乱から17年後、政則によって赤松家が再興されると、初代龍野城主・赤松村秀に従っていた肥塚頼清の子・憲春が、復活した梶山城に入り、肥塚氏は光憲、祐忠(すけただ)と続きます。最後の肥塚祐忠は1559年、楯岩城の広岡五郎に攻められて居城の梶山城が落ちるのですが、ちょうど留守のすきを突かれるという、悲しい物語が伝わります。

    赤松政則が興した後期赤松氏の2代目・義村を殺害した浦上村宗の息子で、御津町室津の室山城主だった浦上政宗の招きにより肥塚祐忠が室津を訪れている時、その留守を狙って楯岩城の広岡五郎が梶山城を攻めたのでした。祐忠の弟・祐政は討ち死にし、祐忠の妻・白菊は3人の子を城外に落ち延びさせ、城に火をかけて自害しました。

    肥塚祐忠は事態を知って、急いで梶山城に戻ろうとしたのですが、その途上を広岡軍に攻められ、御津町岩見の稲富山円融寺で亡き妻・白菊を追うように自ら命を絶ったのでした。