長谷山城(上)
2020年5月26日(火) 放送 / 2020年5月31日(日) 再放送
たつの市揖保川町大門にある長谷山城です。揖保川町には、「揖保川の下流域を押さえる肥塚氏の梶山城」と「室津街道ににらみを利かす伝台山城」が、関連の深さから1.5キロほどの距離で東西に並んでいました。長谷山城は、西の伝台山城から北西へ4キロほどの所にある「畝状竪堀を配した郡境の城」です。
現在、長谷山城はたつの市南部の西の端に位置し、相生市と接していますが、市制以前は、それぞれ揖保郡と赤穂郡でしたので「郡境」だったわけです。この境界に近い立地は、山城の在り方にも影響します。基本事項を整理しておきましょう。
東西に走る国道2号とJR山陽線に挟まれた、海抜70メートルの長谷山頂上にあります。伝承によると、14世紀前半の南北朝時代に長谷川判官政時という武将が築城し、100年余り後の1455年に赤松一族の広瀬太郎師光が居城したとされ、さらに100年を経た1555年には龍野赤松家の年寄職・江(恵)藤越中守清好なる武将が城主となるのですが、秀吉が1580年に姫路市飾磨区の英賀城を攻めた際、落城したとされます。
長谷山城を築城したとされる長谷川氏と最後の城主・江藤清好については、全く分かりません。ただ広瀬氏は、赤松円心の長男・範資の四男・師頼が後に姓を改め「広瀬氏の祖」となりますが、その後は戦国の世に次々と散っていきます。
広瀬氏の初代・師頼の後は子の頼康が継ぎ、次いで円心の次男・貞範の息子・則親が広瀬氏2代目の婿養子となり、長水城主に就きました。広瀬氏3代目の則親は1391年、山名氏による「明徳の乱」で、円心の三男・則祐の息子・赤松義則に従って山名氏と戦い、義則の弟・右馬助をはじめ、宇野氏や黒田官兵衛の妻・光(てる)の実家・櫛橋氏ら赤松系の57人が討たれましたが、広瀬則親は軍功により幕府から西播磨4郡内に恩賞を得ました。
則親の後を継いだ広瀬氏4代目の満親の代に「嘉吉の乱」があり、満祐ら赤松氏一族は家臣とともに、たつの市新宮町の城山城で自害した際、広瀬満親も共に没しました。乱で赤松宗家は一時滅亡し、広瀬氏も没落します。長谷山城にいた広瀬師光は、時代的には広瀬満親の息子辺りと同年代と思われますが、各種ある広瀬氏の系図にも師光の名が見当たりません。
広瀬一族は、秀吉の播磨攻めで、広瀬政氏が赤松則房の置塩城から三木城に移って討ち死にし、政氏の息子・政清は、宇野氏の居城となっていた長水城落城前に宇野政頼・祐清の親子らと城から逃れましたが、宍粟市千種町岩野辺で宇野氏と共に自害しました。