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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年6月7日(日) 08時30分

    長谷山城(下)

    2020年6月2日(火) 放送 / 2020年6月7日(日) 再放送

    たつの市揖保川町大門にある長谷山城の2回目です。長谷山城の特徴は、揖保郡と赤穂郡とが接する「郡境」という立地から、戦いにおける「守り」をより固めた点にあるでしょう。「畝状竪堀を配した郡境の城」と位置付けられるのもうなずけます。

    今の地名では、相生市那波野と境を接し、その東のたつの市側に位置していて、北の麓を国道2号線、南の麓をJR山陽本線の線路に挟まれた、海抜70メートルの長谷山の頂上に、山城の主郭と東西に連続する曲輪群や帯曲輪、畝状竪堀などが残っています。

    山頂は、城があった証しである削平地に、南北18メートル、東西36メートルの主郭跡と、西から南側に腰曲輪があります。主郭南の西寄りに、石が積まれた入り口の虎口(こぐち)が見られまして、主郭東側は2段の曲輪があり、西側にも同様の曲輪が残っています。そんな長谷山城を特徴付ける最大の遺構は、何といっても多数の「畝状竪堀」の存在です。

    畝状竪堀とは、戦国時代に築かれた城の防御設備で、土塁と竪堀が交互に隣り合っていて、空堀と空堀の間には土塁があり、土塁と土塁の間には空堀があります。こうすると、少数の兵でも城の守りを固められる利点があるため、地域的に敵対する最前線の山城によく築かれます。

    地域史の本には、長谷山城の畝状竪堀が「20本余り」などとありますが、古くはもっと多く残っていたようで、「浅野文庫諸国古城之図」には、長谷山城の別名・長福寺城として四周に53本もの竪堀が描かれている旨が記されています。近年、かなり地形の改変があったものと思われ、残念ですね。

    さて長谷山城にとって「敵対する相手」とは誰でしょうか。時代によっても異なりますが、戦国時代の後半では、備前の浦上氏と宇喜多氏が「西」の勢力で、これを防ごうとしたのが、「東」の龍野赤松方と言えるでしょう。つまり西の浦上・宇喜多両氏は相生市矢野町森の感状山城を東の境目城とし、東の龍野赤松氏が長谷山城を西の境目城と位置付けたと思われます。同様の「畝状竪堀と帯曲輪の充実ぶり」を重点に付近を眺めると、相生市竜泉町の光明山(こうみょうせん)城も「西の押さえ」として機能したでしょう。

    もともと浦上氏は、播磨国揖西郡浦上荘、現在のたつの市揖保町が本貫地ですが、播磨守護の赤松氏に仕え、浦上則宗が播磨守護代となって躍進し、則宗の兄の孫・村宗が播磨・備前・美作の3国を支配します。そしてついには主家の赤松義村を殺害するに及び、下剋上を成し遂げます。また宇喜多氏は能家(よしいえ)が浦上氏の被官となり、その孫の直家の代で全盛を迎え、戦国時代後期に備前や播磨を舞台に名を挙げました。