『中国行程記』から(1)船坂峠
2020年6月23日(火) 放送 / 2020年6月28日(日) 再放送
山口県の萩藩の絵図『中国行程記』に描かれた船坂峠です。船坂峠は備前と播磨を分ける「国境の峠」で、かつては難所として知られるとともに、歴史的な節目で多くの物語を生んできました。現在は、国道2号に船坂トンネルがあるため、自動車・鉄道ともに、国を東西に分ける峠の存在感は全くありません。
しかし元は、旅人が山越えをする際、山と山の間のさながら「船底」のような所から登ったことから「船坂」と名付けられたと言います。古代から交通の要衝だったため覇権を巡る争いが続き、古くは応神天皇の母・神功皇后が戦ったとの伝承をはじめ、源平合戦などの戦の跡が語られます。
そんな中でも、かつて最も著名だったのは、南北朝期に成立したとされる軍記物語『太平記』に登場する、備前の国の武将・児島三郎高徳と後醍醐天皇の話でしょう。戦前は教科書に掲載された児島高徳は、日本人なら知らない者がいないほどの著名でしたが、現在では、『太平記』以外には記述が見られないため、「実在の人物である確証はなく、『太平記』の著者とされる小島法師と同一人物ではないか」とも言われています。
いささか今日的意義に欠ける存在になった児島高徳ですが、南北朝期に一貫して後醍醐天皇の南朝方に付き、偵察・攪乱・連絡などの役割を務めたばかりか、後醍醐帝が京の都から島根県の隠岐に流される際、失敗に終わったものの、この船坂峠で奪還を果たそうとした懸命な姿が、長く語り継がれました。
高徳は1332年3月、一族を率いて船坂山の峠で待ち伏せしました。ところが天皇一行はこの山陽道を通らず、16キロほども北、佐用町の旧上月町と岡山県美作市との境にある「杉坂峠越え」で西に向かいました。これを知った高徳は、すぐに兵を杉坂峠へ向かわせましたが、天皇は既に通り過ぎた後でした。
一族の者は「運がなかった」と諦めましたが、高徳はただ一人、岡山県津山市の院庄の館に忍び込み、桜の木に中国の故事にちなんだ句を刻んで、天皇を励ましました。「天勾践を空しくすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」。つまり「越の王・勾践のように、忠臣の范蠡が助け出してくれることもあるから」というものでした。
この話は「船坂山の義挙」として戦前は有名な話でしたが、今では高徳の実在さえ危ぶまれ、「修験道に関係した人物ではないか」とも言われています。
- 一級資料の『中国行程記』
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